もしも道元が数学者だったなら | Dōgen’s sequence of practice

  修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ、彼岸に修行あるがゆゑに。 |正法眼蔵第三十四・仏教 これは「修行に終りはない」という意味にとっていいのだろうか。もしそうなら「彼岸」はなんのためにあるのか。「彼岸」とは(煩悩の)川を渡り切った向こう岸のことだけど、それは日常行為にとっての「目標」みたいなもので、修行を動機付けるための方便にすぎないのだろうか。...と考えているうちに、これは「数列」に似ている!と思った(前回)。 高校で無理数を習った読者はそれを一旦忘れてもらって、√2 という記号を、次の命令を表すものとする: x2 < 2 を満たす、小数点以下 n 桁の小数で最大のものを書け。 その小数を an としてこの命令を実行すると、 a0=1, a1=1.4, a2=1.41, a3=1.414,  a4=1.4142, . . .   (✻) という数列が出来る。念のため a1と a2 についてだけ確かめてみると、 1.4×1.4 = 1.96 < 2,   1.5×1.5=2.25 > 2 1.41×1.41 = 1.9881 < 2,   1.42×1.42 = 2.0164 > 2 以下同様。こうして命令 √2 は数列 1, 1.4, 1.41, 1.414, 1.4142, ... を生成する。これを √2 →... Continue Reading →

数は量れるか、量は数えられるか | On counting and measuring

志賀浩二『数と量の出会い』2007 によると、今でこそ「数量」という言葉があるが、数と量はもともと全く異なる概念だったという。 考えてみれば、その通りだ。「数える」ことと「量る」ことは全然別の行為ですからね。たとえば、数えた結果が「ほぼ…」になることはありえない。ひぃふぅみぃ…と数えて「ほぼ十二枚でんな」と急に関西弁になると、すぐ番頭はんに「あほ!きちっと数えんか!」と怒られる。「きちっと数える」ことが可能だから怒られるわけだ。数がもっと多くなって、大阪の人口が「約250万」としても、それは下の方の桁を省略しているだけで、必要なら「約」を外した数は示せるはずだ。一方、量については、量るという行為が測定器を使う以上、その精度に応じて測定結果はつねに更新される。「1mの棒」はありえない。「約1m」「約 1.027 m」「約 1.02734m」… の棒しかないのだ。 その水と油のような数と量とがいかにして出会ったか。それがこの本の主題であり、そして同じようなこと –––「量を数える」みたいなこと ––– が数学以外の場面にもありそうだと思うわけだが、その前にもうちょっと数学。 究極の定規 “G” が開発されたとしよう。Gはどんな物体も望みの精度で正確に測定できるし、Gを装備した工作機械 MG は何でも正確な精度で物を作れる。「一辺が 1m の正方形」と入力すると、 MG は一瞬でその正方形を出力する。では、その正方形の対角線の長さを測りなさいと命令すると、精度ハ?と尋ねてくる。小数点以下百万桁といえば百万桁を、十億桁といえば十億桁を、MG は1秒もかからずに出してくる。こっちがそれを読むのに(読もうとは思わないが)1週間かかるとしても。その最初のいくつかは、二千年前のギリシャの数学者がすでに計算してある。 1.414 1.4142 1.41421 1.414213 1.4142135 ... それって、√2 のことでしょ?と答えないでほしい。まさにその √2 の謎に出会おうとしているのだ。そしてそれは、道元のことば: 修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ、彼岸に修行あるがゆゑに。 |正法眼蔵第三十四・仏教 と何らかの関係をもっているにちがいないと思っている。続きは次回。   The number and the amount are quite distinct ideas, representing the actions of counting and measuring respectively. You can count the exact number of a... Continue Reading →

百千万億の経巻 | You will read billions of scrolls of sutras out there.

二十七祖・般若多羅はんにゃたら尊者が国王主催の昼食会に招かれた時のこと。 国王が尊者に問い質した、「他の僧侶らは皆わたしの前で経典を読誦した。あなたはなぜしないのか」。すると尊者は答えた、「諸縁に随わず、我身に安住もしない。わたしは百千万億巻の経典を常に誦じている。一巻や二巻どころではない」。–––正法眼蔵第三十「看経」より ここで「我身に安住しない」と訳したところは「不居蘊界」で、蘊界とは五蘊(人間の身心を構成する五要素=色受想行識)をいう。尊者が居るのは、五蘊に規定された世界の外ということになる。不随衆縁・不居蘊界の眼に映るすべてのものは、たとえ文字でなくても仏典でないものはなく、耳に聞くすべての音は、たとえ言語でなくても仏説でないものはない。 蘊界の外。そこは蘊界の別なく、もの・ひと・ことばが交わる空間だ。その空間を一々の衆生の行動様式として「現成」させる。どうやらこれが仏道のほんとうの目的ではないか。個人のさとりとか、もう関係ない。   When the King of East India invited Prajnatara the 27th Ancestor to his luncheon, the King asked him, “Everyone turns [reads] a sutra except you, venerable. Why is this so?” Prajnatara said, “While exhaling I do not follow conditions. While inhaling I do not reside in the realm of skandhas... Continue Reading →

善は作られる | Righteousness is an artifact.

「正法眼蔵」とは正しく伝えられた仏法の要点(眼)の集成(蔵)という意味だが、ここまで見てきたところ、どうやらその要点は「点」ではなさそうなのだ。正法とはこれとこれとこれです、という形で示せない。正法は「これ」であったり、なかったりする。 諸悪なきにあらず、莫作まくさなるのみなり。諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり。|正法眼蔵第三十一・諸悪莫作 たとえば諸悪はないわけではなく、あるわけでもない。有か無かという選択が、仏法にはないのだ。諸悪に対してはただ「莫作(作さない)」だけだという。どういうこと?同様のことが衆善(=諸善)についても言われる: さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。作善さぜんの正当恁いん麼も時、きたらざる衆善なし。万善は無象なりといへども、作善のところに計会すること磁鉄よりも速疾なり。|同上 あらかじめ善というものが存在して人が来るのを待っているなんてことはない。善は有るのではなく、作すのだ。有る善を作すのではなく、作すところに善が出来る。どんな善もそれ自体に善の象かたちが定まってはいない。だが作善するまさにその時(正当恁麼時)、万の善が、磁石に引き寄せられる鉄片よりも速く集結する。 行為をベクトル、行為の対象を点で示せば、道元は世界を点の巨大な集合ではなく、ベクトルの海とみているようだ。海流にしたがって無数億の点が離合集散し、ところどころに島ができている風景。   Although 'Shōbōgenzō' –– Treasury of the True Dharma Eye –– literally means “Collection of the True Dharma Points”, they do not seem to be a collection of points; you will not be able to point to this dharma or that dharma in the collection. A dharma could be... Continue Reading →

月と水 | Reflection on subtleness

正法眼蔵「諸悪莫作(しょあくまくさ)」の巻にいう、「悪の人ををかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる」。 どういうこと?悪は人を冒すから悪と呼ばれるのではありませんか?人は悪を破り、善を行なうべきなのではありませんか?(「あきらめらる」=明らかにされる) まず、この文が「現成公案」の巻の次の文と同形であることに気づく: 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。 (人が覚りを得るとき、それは月が水にその影を宿すのに似ている。月は濡れることなく、水面は微動だにしない) ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天みてんも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。 (広く大きな光だが一尺一寸の水に宿り、満月も満天の星も草の露・一滴の水にも影をうつす) 月と水と、その物理的な大小はキャンセルされて、互いに他を少しも礙さまたげず、対等で繊細な関係にある。さとりと人の関係はそうあるべきだというのだ。 驚くべきは、悪と人の関係も同様だというところにある。排除か容認かの単純判断ではなく、複雑にしてデリケートな態度を「やぶらざる、をかさざる道理」と表現しているように思える。これは悪や善の問題ではたぶんないのだ。「問題」への態度が問題なのだ。 地球上で起きるできごとの大部分を、異なる二つのものの遭遇、接触、連結、分離の繰り返しと考えるなら、道元はその接触の様式について考えている。これをいかに洗練させるか。それは人の行動様式、したがって心の様式を洗練させることに結びつく。人が遭遇する対象が「さとり」であるか「悪」であるか「月」であるか「水」であるかは問わない。ぬれずやぶれずの作法はしずかに拡散して、現代のたとえば妹島和世の設計した美術館のファサードにもやどっている。そのアルミニウムの簿壁は「内」と「外」とを絶妙の繊細さで触れさせている。 In the chapter of “Refraining from Evil”, Dōgen wrote: You will know the idea that evil does not affect a person and a person does not disrupt evil. What is that idea? Evil is called evil because it affects people, isn’t it? People should disrupt... Continue Reading →

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