空に境がないように|Vanishing boundaries

『大般若経』の一節。帝釈天が須菩提に尋ねる、「菩薩が般若を学ぼうとするとき、どう学ぶのだね?」 須菩提は答える、「帝釈よ、菩薩は虚空のように般若を学ぶのだ(如虚空学)」 これを、 般若は虚空のような知であると読むか。それとも、学般若は虚空を飛ぶような体験であると読むか。ここで道元は「〜ような」を落とす: しかあれば学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。 ––– 正法眼蔵第二・摩訶般若波羅蜜 論理が崩れている。「空」は名詞、「学」は動詞。動詞と名詞は類が異なる。この越えてはならないであろう境界が崩れ去っている。それでもなにかを認識し、その認識を伝達することは可能なのだろうか。論理や類別は認識と言語のために築かれたのではなかったか。 道元はまた言っている。 空の飛去するとき鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに空も飛去するなり。 ––– 正法眼蔵第十二・坐禅箴 鳥が飛ぶのか、空が飛ぶのか。飛に空もなく、鳥もないという。あるいは、空であり鳥である飛しかないのだと。   In Mahaprajna Sutra, Indra asks Subhuti, "Great reverend, if a bodhisattva wishes to learn prajna, the perfect wisdom, how should he learn it?" Subhuti replied, "Lord Indra, he should learn prajna like the sky." Subhuti's answer probably means either that prajna is... Continue Reading →

空と水と谷|Prajna as an experience of the sky

たとえば京都駅のコンコースは「谷」のように設計されている。「両岸」にいろいろな形をした「岩」や、色合いの異なる「地層」が露出している。見上げれば、切り取られた空を雲が流れ、足もとには60m上空の鉄骨フレームの影が樹影のように落ちている。設計者・原広司はこれを空間の「情景図式」または「様相」と呼んでいる。様相は図面上には書くことができない。図面の先に立ち現われ、それを人は体験する。 テキストにもやはり様相はあるのだろうか。あるはずだ。読むという行為は文字をただ追うことではなく、文字が立ち現わす様相を体験することだと思うからだ。意味を理解することは、様相体験の一部だ。 正法眼蔵には「空」と「水」の喩えがよく使われる。道元はこう言っている: 学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。 |正法眼蔵第二「摩訶般若波羅蜜」 般若はんにゃとは、「諸法の道理を見抜く智慧、直証的な智慧」と仏教辞典(岩波、第二版)は定義している。その般若が空そらなのではなく、般若を学ぶことが空であり、空は般若を学ぶことなのだという。どういうこと?   Designed as a ‘valley’ within a cityscape, Kyoto Railway Station’s concourse exhibits ‘rocks’ and ‘strata’ of various shapes and colors on its high interior cliff, with drifting clouds in the sky above and shadows of the roof frames falling on the floor below. Hiroshi Hara, the architect, called... Continue Reading →

虚空の如く | Minimizing the distance between Buddha and God

仏教について考えるとき、いつも気になっているのは、その対極にあるように見える一神教のことだ。ほんとうに対極なのだろうか。 たとえば黄檗は金光明経を引用していう、 仏の真法身はあたかも虚空のようだ。(仏真法身猶如虚空) これは神についても成り立たないか。神はあたかも虚空のように姿かたちをもたず、しかもなお地上のすべての者を覆って存在する。だから神の像は造れない(造ってはならない、ではなく)。すると、仏像とはなんなのか。造像はアレクサンドロスの中央アジア〜インド遠征以降、ギリシャ系入植者によって開始されたとする通説に従えば、仏教にとっては二次的なものということになる。それだけでなく、大乗涅槃経の説くところでは、ブッダ入滅に際して、生きていたブッダに代ったのは精巧な再現像ではなく、抽象的な仏性だった。仏の真法身はずっと「虚空の如く」あり続けたのだ。 数についてはどうか。「八万四千諸仏」と「唯一神」とははるかに異なるように思える。しかし金光明経は上の語に続けていう、 〔仏真法身は〕物に応じて形を現じる。ちょうど水に映る月のようだ。(応物現形如水中月) 山河大地日月星辰あらゆる物に諸仏としてすがたを現すその真の法身は、すがたなくかたちなく、処在なきがゆえに遍在する。数えられるような対象ではないという意味で、やはり「唯一」なのだ。唯一の遍在する仏が「物に応じて」八万四千の諸仏と現じる。   Think about a contrast between Buddhism and monotheism. Is it really a contrast? Huangbo quotes a passage from Suvarṇaprabhāsottama Sūtra: True body of dharma is just like the sky. God is without form, present above all the beings on the earth. Isn't it precisely how the sky is... Continue Reading →

はじめて陸をみた | An amphibian’s surprise

新しいテーマを始めよう。正法眼蔵に何度も登場する仏祖について。 歩き始めたばかりの子は一歩あるく毎度、発見の連続にちがいない。はじめて陸地を発見した初期両生類は、日々、眼を開けているだけで驚きつづけていたにちがいない。その感覚は大人になっても哺乳類になっても、失われてはいないだろう。形を変えて保存されているのだろう。その無意識の底に生きつづけているはずの感覚に、どんな名を与えるか。黄檗おうばく(? - 850) はそれを「心」とよぶ。喜怒哀楽するおなじみの心のことではない。 師謂休曰、「諸仏与一切衆生、唯是一心、更無別法」。 師(黄檗)はわたくし休(裴休)に言った、「諸仏も、一切の衆生も、ただこの一心にほかならず、それ以外になにもない」。 此心即是仏、仏即是衆生。為衆生時、此心不減。為諸仏時、此心不添。 |黄檗『伝心法要』〔一〕 この心が仏であり、仏はすなわち衆生である。衆生である時この心が少ないわけではない。仏である時この心が増えるということもない。 黄檗は、衆生と仏の境界を抹消している。紀元前のインド以来蓄積されてきた「仏教語」の外で、仏を再定義しようとしている。かれはそれを仏といわず、心というのだ。   Let us start a new subject; introducing the thoughts of the buddha ancestors frequently mentioned in Shobogenzo. The first ancestor to be discussed is 黄檗=Huangbo Xiyun (?–850). Imagine an infant just beginning to walk, or an early amphibian having met with dry land.... Continue Reading →

四角形の響き| Echo of a square

たとえば四角形を一つ置く。 ⬜ カードか。金属か。紙か。それとも孔か。立っているのか。落ちているのか。あるいは浮いているのか。周りはどうなっているか…... などと考えたとしよう。それは四角形の反響だ。水面に落ちた花びらが小さな波紋を発生させるのといっしょだ。 正法眼蔵『神通』から: 大潙和尚が寝ているところに、弟子の仰山がやって来る。大潙は起き上がって仰山に言う、いまわしが見ていた夢の話をしてやろう。仰山は聴く姿勢。大潙が言う、今の話で夢解きをしてみなさい。すると仰山は、盆に水を満たし、手拭いを一枚添えて大潙に渡した。大潙はそれで顔を洗う。さっぱりして座ったところに、もう一人の弟子・香厳が入ってきた。大潙は香厳に言った、いま仰山と一番手合わせしたところだ。なかなかのものだ。おまえもここでなにか言うべきことがあるなら言いなさい。すると香厳は、茶を一杯点じて差し出した。大潙いわく、二人とも、やるじゃないか。鶖子、目連もおまえたちほどではあるまい。 落語に出てきそうな話だ。鶖子と目連はブッダの十大弟子のなかの二人である。笑いをこらえてシリアスに読むと、言葉による問いと言葉によらない応答が滑らかにやりとりされている。問・答だけがあって、それぞれの材質は関係ない。ただ反響を聴きながら、応答を瞬時に選び取っていく。大潙トリオの高度な技を評価して、道元はその演奏を正法眼蔵に入れたのだろう。       If I place a square here: ⬛ you may imagine it to be a card or a box or a window, standing or lying or floating, made of wood or metal or paper, and so on. Like a petal falling to create small ripples on the... Continue Reading →

過去は去らず| The past does not pass.

過去は変えられないが、過去の解釈は変えられる。だから、過去は変えられる。 「不可逆的に流れる時間」という観念は過去と未来の非対称に基づいている。未来は未定で、どんな未来にするかは自分次第というところがあるが、過去は既定で動かせないと。しかし、もしこの前提が外せるなら、話は変ってくる。時間というものへの眼差しが変わる。道元の「時」を聴こう: 三頭八臂はきのふの時なり、丈六八尺はけふの時なり。しかあれども… |正法眼蔵「有時」 「三頭八臂」「丈六八尺」はそれぞれ阿修羅像と仏像の外形的特徴。きのうは阿修羅で、今日は仏。全然別だ。そうではあるが… その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰万峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。 「昨」と「今」は全然別に見えるけど、そうじゃない。山に入って峰々を見渡すように、今という峰、昨という峰、昨々という峰、一万年前の峰々、一億年前の峰々が、連なりながら展開する。時は過ぎるのではない。時は、過去現在未来という姿で、今、同時にある。 三頭八臂もわが有時にて一経す、彼方にあるににたれども而今なり。 きのう見た阿修羅はわが時のなかの一つ。過ぎ去ったかにみえるが、じつは今なのだ。 丈六八尺もすなはちわが有時にて一経す、彼処にあるににたれども而今なり。 今眺める仏もやはりわが時にあって、やがて去っていくかにみえるけれども、ずっと今なのだ。……そうなると、はるか昔に菩提樹の下でブッダが覚り、やや昔に壁に向って達磨が覚り、いまわたし(道元)が覚りつつあるというのはまちがいで、ブッダも、達磨も、道元も、それから他のすべての諸仏も、まさに今、一斉に咲き誇る花のように、覚めて立つ。 諸仏、斉肩同時の成道なり。 |正法眼蔵第三十九・嗣書   While the past cannot be changed, its meanings can be changed through interpretation. That is to say, the past can be changed. The notion of irreversible time is based on asymmetry between the past and the future, between the time in... Continue Reading →

快適の設え | Do not seek it. Create it.

洞山大師に僧が尋ねた。 「暑さ寒さを避けるにはどうすればよろしいでしょうか」(寒暑到来、如何廻避) 師は答えた。 「暑くも寒くもない処に行けばいい」(何不向無寒暑処去) 僧「それはどんな処ですか」(如何是無寒暑処) 師「寒い時には死ぬほど寒くて、暑い時には死ぬほど暑い」(寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨) |正法眼蔵第三十七・春秋から そんなに暑くて寒い処がどうして「無寒暑処」なのか。たぶん洞山が言うのは、それはどこかに設えられた快適な場所ではなく、どこにでも快適を設えることなのではないか。極寒と灼熱の中に、別世界を挿入せよと。これを一つの転回と考える。   Master Dongshan was once asked by a monk, “When cold or heat comes, how can we avoid it?” Dongshan replied, “Why don’t you go where there is no cold or heat?” The monk said, “Show me the place where there is no cold or heat.” Dongshan... Continue Reading →

Blog at WordPress.com.

Up ↑

%d bloggers like this: