やがて世界が覚める|Propagating awareness

正法眼蔵(広義)はそもそも一つの壮大な構想の企画書である。ブッダがその草案を書き、道元を含む諸仏諸祖が更新を重ねてきた。大乗仏教の段階で、仏はこう定義しなおされた。それは〝目覚めた者〟であるだけでなく、人を〝目覚めさせる者〟であるべしと。これによって覚性 awareness が世界に拡散される速度は格段に上がるはずだ。個の悟りが人類レベルの覚醒に拡大する。 十方尽界にあらゆる過現当来の諸衆生は、十方尽界の過現当の諸如来*なり。 :十方世界の過去現在未来のすべての衆生は、十方世界の過去現在未来の如来たちである ––– 正法眼蔵・第四十一「三界唯心」 これは「衆生はそのままで如来である」というような寝ぼけた現状肯定論では全くなく、覚性波が諸衆生を諸如来に変えていく様子を描いている。その金波銀波は過去現在未来を問わず、壁にも石にも草にも木にも向かい、一切の衆生と、一切の衆生の見るもの触れるものとを、次々に覚醒させながら、あっというまに十方尽界の果てに到達するのだ。 *  「如来」は仏の呼称の一つ。 Buddhism is a grand project that Buddha started and a number of his followers, including Dōgen, revised and modified. Mahāyāna redefined the idea of buddha not only to be an awakened one but an awakening one, who is ready to communicate his/her awareness to others,... Continue Reading →

ガラスの靴が脱げたのなんか気にするな。

なんだかねあらゆることの真理みたいなのが見えた様な気がするんだよ。それは、何か記憶の奥底に重なって積もった私の痕跡のスパイラル。それが夜泣きの涙と一緒に巻き戻り、記憶に刻み込まれた、たまらなく大切な瞬間の逆再生がみえる。とても愛おしい。大切な光の粒。暖かい光の輪。想いの輪。弱り切った魂に息を吹きかけ、蘇った一番新鮮な心臓で朝を迎える。 新たな螺旋階段を裸足で駆け上がるんだ。スーパーサイヤシンデレラ人IIだ。

ウンマの「さとり」| Enlightenment over society

「さとり」は仏教のキーワードなのだが、これを個人が体験的に到達する境地みたいに理解すると、仏教とくに禅仏教は心の平安を得るためのトランキライザーになりかねない。そういうことであれば仏教以前にすでにバラモンの修行者たちがより大きなスケールで「宇宙と自我との合一」を求めて瞑想をしていたのだし、ブッダがそのバラモン教を批判して新たな宗教運動を起す必要もなかっただろう。あるムスリムが SNS 上でさとりを至上目標とする仏教徒を笑っていたが、はじめからウンマ(社会、一般にはイスラーム共同体と訳される)を中心に考えるかれらからすれば、笑われても仕方のないところだ。 仏教もじつはすでに二千年前に自己批判して、自己の得悟とともに他者への慈悲を基本原則に加えた。大乗仏教という。時々その初心が忘れられてしまうようなので、ここで確認しておきたい。もちろん道元はその継承者だ。たとえば正法眼蔵のこのフレーズ: 達磨すでに伝与するときは達磨なり 二祖すでに得髄するには達磨なり |第三十八・葛藤 中国仏教の初祖・達磨がその法を二祖・慧可に伝えた。伝法が「達磨」と「慧可」の差を消滅させるというのだ。「得髄」には故事があるが、さしあたりここでは〝仏法の真髄を得ること〟と理解しておいていい。「自己から他己に法を伝える」という構図が逆転して、「伝法が各己を定義する」ことになる。そうして法が波動のように社会空間を伝播し、「ウンマ」に平安をもたらす。これが大乗仏教、というより、「無我」を説いたブッダその人の構想だったのではないか。それならばムハンマドも、仏徒には仏徒のやりかたがあるくらいには思ってくれるかもしれない。   The problem is that Zen Buddhism is believed to be about Satori or enlightenment. If Satori is understood as an ultimate state of mind that can be attained through practice, then the focus of Buddhism would be on individuals who seek for perfect calmness and awareness, which is... Continue Reading →

仏教を微分する | Texture and structure

三角関数たとえば x = sin t を図形上で三角比として定義するのと、それを微分方程式 x'' = –x の、初期条件 f (0) = 0,  f' (0) = 1 における解と定義するのとでは、思想が全くちがう。前者は斜辺長1の直角三角形の計測からただちにそのグラフが描かれるが、後者の微分方程式はただ空間の各点 x に、中心に向かう、大きさ |x|の加速度を定義しているだけだ。中心から離れれば離れるほど強い向心力がかかるということだ。これはいわば空間の力学的なテクスチャーに関する情報であり、大域的なストラクチャー(グラフ)は初期条件を指定してはじめて姿を現わす。 臨済はこう言っている:「有身非覚体、無相乃真形」。仏の身体と称されるものはどれも仏ではない。姿かたち無きものこそ仏の真の形なのだと。(入矢義高訳注『臨済録』85p、『正法眼蔵』神通章に引用) 微分方程式は無相の真形を記述している。姿なきテクスチャー、より仏教的に言えば因果のテクスチャーを、社会空間のなかに織り上げる。その技を修めるのが仏の道なのだ。そう考えれば、道元のテキストのいたるところで矛盾に遭遇するのはなんら不都合ではない。それはストラクチャーの不連続なのであって、テクスチャーの連続性に何の影響もない。   Think about a mathematical function x = sin t, for example. It’s defined either as the trigonometric ratio or as the solution to the differential equation x" = –x on the initial condition... Continue Reading →

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