月と水 | Reflection on subtleness

正法眼蔵「諸悪莫作(しょあくまくさ)」の巻にいう、「悪の人ををかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる」。 どういうこと?悪は人を冒すから悪と呼ばれるのではありませんか?人は悪を破り、善を行なうべきなのではありませんか?(「あきらめらる」=明らかにされる) まず、この文が「現成公案」の巻の次の文と同形であることに気づく: 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。 (人が覚りを得るとき、それは月が水にその影を宿すのに似ている。月は濡れることなく、水面は微動だにしない) ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天みてんも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。 (広く大きな光だが一尺一寸の水に宿り、満月も満天の星も草の露・一滴の水にも影をうつす) 月と水と、その物理的な大小はキャンセルされて、互いに他を少しも礙さまたげず、対等で繊細な関係にある。さとりと人の関係はそうあるべきだというのだ。 驚くべきは、悪と人の関係も同様だというところにある。排除か容認かの単純判断ではなく、複雑にしてデリケートな態度を「やぶらざる、をかさざる道理」と表現しているように思える。これは悪や善の問題ではたぶんないのだ。「問題」への態度が問題なのだ。 地球上で起きるできごとの大部分を、異なる二つのものの遭遇、接触、連結、分離の繰り返しと考えるなら、道元はその接触の様式について考えている。これをいかに洗練させるか。それは人の行動様式、したがって心の様式を洗練させることに結びつく。人が遭遇する対象が「さとり」であるか「悪」であるか「月」であるか「水」であるかは問わない。ぬれずやぶれずの作法はしずかに拡散して、現代のたとえば妹島和世の設計した美術館のファサードにもやどっている。そのアルミニウムの簿壁は「内」と「外」とを絶妙の繊細さで触れさせている。 In the chapter of “Refraining from Evil”, Dōgen wrote: You will know the idea that evil does not affect a person and a person does not disrupt evil. What is that idea? Evil is called evil because it affects people, isn’t it? People should disrupt... Continue Reading →

ガガーリンは見た | Color of the boundary

数学に「開集合」というものがある。その集合には輪郭がない。 考えてみれば不思議なことだ。たいていのものに輪郭はある。あるからこそ線で絵は描けるし、設計図面もつまりは輪郭線の集まりだ。心象とか記憶とかは別として、目に見え指に触れるようなものなら輪郭がないなどということは考えられない。それどころか、イスラームやキリスト教はそもそもこの世界に輪郭をもたせている。出発点(創世)と終止点(終末)を設定するわけですからね。 その意味では、20世紀の宇宙開発はリアルに世界の輪郭を見ようという試みだったのかもしれない。人類最初に地球の輪郭を見たガガーリン少佐の言葉、「地球は青かった」は今も忘れない。その「青」はもちろん、地球の輪郭面の色だ。 輪郭は外からしか見えない。ここがポイントだ。道元の「虚空のごとく般若を学ぶべし」を、もし「輪郭のない知」の意味にとるなら、それは宇宙からではなく地上で地球を見よということ、ではないか。般若を、開集合系として構成せよということではないか。どうやったらそれができるかは、わからないが。   Topology is a theory of mathematics. Its basic idea is the open sets, which has no boundaries of their own. This seems quite strange because every ordinary objects like desks, notebooks, cups and bottles have their boundaries defining themselves distinct from other objects or the space around them. It seems... Continue Reading →

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