ジョイントを交換せよ|Buddha’s project to redesign the society (1/2)

工学的見地に立つと、人間の特徴は世界を改修する能力をもっている点にあるだろう。人間はそのいみで例外なく職人といえる。腕利きもいれば下手もいるし、職種も千差万別。自分自身の近辺だけを改修することに集中する職人もいれば(自分とは世界の部分だ)、大勢の職人を統率する棟梁や、改修のデザインを考えることに長けた設計家もいる。夕方になると、世界中で一仕事終えた職人たちが一風呂浴びて、一杯やったりしているわけである。 ブッダももちろん一職人だった。かれは世界の現状を「皆苦」とみた。どうすれば「皆楽」になると彼は考えたか。仏教学者の通説とは独立に、本研究所はこう理解する。世界は人と物事、およびそれらの繋がりでできている。繋がりを構成する重要な要素として言語がある。物をどう呼ぶか、人と人の間にどんな言葉が交わされるかが、世界の質に大きな影響を与える。建築家ピーター・ズントーが言う通り、「空間の質はジョイントで決まる」のである。よし、ならば改修のターゲットを言語に定めよう。苦しか生みださない言語を、楽に転ずるようにしよう。 だがそうは言っても、人の言語を簡単に変えられるわけがない。そこでブッダはどうしたか(つづく)   From the viewpoint of engineering, human beings will be characterised by the ability to rebuild their living environment that is both physical and social. They are all "craftsmen" in this sense. Some are very skilled while others are not so talented. There is a great diversity in types of activity; some... Continue Reading →

漢字は文字か|Is Kanji a letter, or an object?

道元はたびたび漢文の文法を無視する。たとえば「諸法実相」のまともな読みは「諸法の実相」で、物事のほんとうの姿という意味だが、道元は「諸法」と「実相」を切り離してこう言う: 実相の諸法に相見すといふは、春は花にいり、人ははるにあふ。|正法眼蔵・第四十三 人は花によって春に逢う。春という抽象的なものに直接は逢えない。同様に、実相という「春」は諸法という「花」に結合=相見することによってはじめて現れる。道元は別のところでそれを「現成公案」と呼んだ。公案とはイデア、抽象理念である。それを身に現成し、心に現成し、言葉に現成し、山河に現成する。その技をきわめる道こそ仏道なのだ。 漢語をそんなふうに扱っていいのかずっと疑問に思っていたが、落合淳思『漢字の成り立ち』(2014) を読んで思いつくことがあった。文字以前、人は対象を言葉で名付け、やがてその名を表わす記号として文字をつくった–––これはメソポタミアやフェニキアの話。黄河平原ではちょっとちがう。殷では、甲骨に生じた亀裂のパターンにそれぞれ名を付けた。亀裂はやがて単純化と体系化を経て漢字と呼ばれることになる。だがそれは名を後から表わす記号ではない。名より先に出現した亀裂=紋様そのものなのだ。だとすれば、漢語があってそれを紋様に記録しているのではなく、紋様があってそれを漢語で読んでいるということだ。読み方は漢流でなければならないという必然性はない。別の読み方を排除する根拠はないわけだ。 道元は直観的にそれを知っていたと考えるしかない。そして諸法(物事)と実相を一旦分離し、有限な事物に無限の実相を展開する技をひたすら磨き、伝えようと正法眼蔵を書いたのだ。   Dōgen frequently violates Chinese grammar. For example, “諸法実相” ––– the reality (実相) of all things (諸法) ––– is transformed into “the reality and all things” and then recombined with each other: The reality meets all things in the same way as spring comes to all flowers, where people... Continue Reading →

世界をプログラミングの対象にする | Imagine an engineer who programs the world.

この世界の外に、世界とその人々のふるまいをプログラミングしているエンジニア・Xがいるとしよう。Xは世界を面白く、しかも美しくデザインしたいと思っているとしよう。面白さ、美しさの定義は措く。むしろXは世界をデザインすることを通して面白さと美しさの概念を探究しているかもしれない。 Xはバグ処理に日々忙殺されることを嫌って、自ら造った「人々」に自律性を与えることにした。これによりXは世界の細部の制御から解放され、大局的な動作に関わる変数の制御に集中できるようになった。Xは来る日も来る日もコードを書きつづけた。それらはXが選んだ預言者たちによって人々に伝えられた。ある伝承では、預言者としてアブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドらの名があり、別の伝承では、ブッダ、ナーガールジュナ、達磨、道元らが含まれる。 道元が伝えたコードの一つを見よう。これは洞山大師の言った「説心説性」についての解釈コードだ。通常これは「心を説き、性を説く」と読まれるが、道元によると… 性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず。 ––– 正法眼蔵四十二・説心説性 心「を」説く、性「を」説くというシンタクスが解かれて、説と心、説と性のたんなる結合になっている。どうしてそんなことをするの?Xが苦心しているのは人々の「ふるまい」の設計だ。たとえばそれは「説」、つまり言語的なふるまいだ。言語は人々の思考と行動の様式を決める主要なファクターといっていい。「どう説くか」。Xはこの問いを、「何を説くか」に変換したのだ。言語的ふるまいの記述を、オブジェクト指向にしたということだ。「説」という操作を、「心」や「性」というオブジェクトに制御させる。人々(ユーザー)が「説」くかと思いきや、説くことをコントロールするのは、説かれる対象の方なのだ。 しかも、プログラミングにおけるオブジェクトにとって本質的なのは、その内容ではなく外形であるという(@raccy)。これは道元が「心」や「性(仏性)」の定義に関心を払わないことと符合する。オブジェクト群を無定義のまま、それらの周囲に説(テキスト)を展開させるという方法がとられているのだ。   Imagine an engineer ‘X’ outside the universe who is programming the complex design of the world and its people’s behaviour. X wants his world to be more fun, more attractive, not only to himself but to all the inhabitants of the world, including fishes, birds, flowers and... Continue Reading →

やがて世界が覚める|Propagating awareness

正法眼蔵(広義)はそもそも一つの壮大な構想の企画書である。ブッダがその草案を書き、道元を含む諸仏諸祖が更新を重ねてきた。大乗仏教の段階で、仏はこう定義しなおされた。それは〝目覚めた者〟であるだけでなく、人を〝目覚めさせる者〟であるべしと。これによって覚性 awareness が世界に拡散される速度は格段に上がるはずだ。個の悟りが人類レベルの覚醒に拡大する。 十方尽界にあらゆる過現当来の諸衆生は、十方尽界の過現当の諸如来*なり。 :十方世界の過去現在未来のすべての衆生は、十方世界の過去現在未来の如来たちである ––– 正法眼蔵・第四十一「三界唯心」 これは「衆生はそのままで如来である」というような寝ぼけた現状肯定論では全くなく、覚性波が諸衆生を諸如来に変えていく様子を描いている。その金波銀波は過去現在未来を問わず、壁にも石にも草にも木にも向かい、一切の衆生と、一切の衆生の見るもの触れるものとを、次々に覚醒させながら、あっというまに十方尽界の果てに到達するのだ。 *  「如来」は仏の呼称の一つ。 Buddhism is a grand project that Buddha started and a number of his followers, including Dōgen, revised and modified. Mahāyāna redefined the idea of buddha not only to be an awakened one but an awakening one, who is ready to communicate his/her awareness to others,... Continue Reading →

ガラスの靴が脱げたのなんか気にするな。

なんだかねあらゆることの真理みたいなのが見えた様な気がするんだよ。それは、何か記憶の奥底に重なって積もった私の痕跡のスパイラル。それが夜泣きの涙と一緒に巻き戻り、記憶に刻み込まれた、たまらなく大切な瞬間の逆再生がみえる。とても愛おしい。大切な光の粒。暖かい光の輪。想いの輪。弱り切った魂に息を吹きかけ、蘇った一番新鮮な心臓で朝を迎える。 新たな螺旋階段を裸足で駆け上がるんだ。スーパーサイヤシンデレラ人IIだ。

ウンマの「さとり」| Enlightenment over society

「さとり」は仏教のキーワードなのだが、これを個人が体験的に到達する境地みたいに理解すると、仏教とくに禅仏教は心の平安を得るためのトランキライザーになりかねない。そういうことであれば仏教以前にすでにバラモンの修行者たちがより大きなスケールで「宇宙と自我との合一」を求めて瞑想をしていたのだし、ブッダがそのバラモン教を批判して新たな宗教運動を起す必要もなかっただろう。あるムスリムが SNS 上でさとりを至上目標とする仏教徒を笑っていたが、はじめからウンマ(社会、一般にはイスラーム共同体と訳される)を中心に考えるかれらからすれば、笑われても仕方のないところだ。 仏教もじつはすでに二千年前に自己批判して、自己の得悟とともに他者への慈悲を基本原則に加えた。大乗仏教という。時々その初心が忘れられてしまうようなので、ここで確認しておきたい。もちろん道元はその継承者だ。たとえば正法眼蔵のこのフレーズ: 達磨すでに伝与するときは達磨なり 二祖すでに得髄するには達磨なり |第三十八・葛藤 中国仏教の初祖・達磨がその法を二祖・慧可に伝えた。伝法が「達磨」と「慧可」の差を消滅させるというのだ。「得髄」には故事があるが、さしあたりここでは〝仏法の真髄を得ること〟と理解しておいていい。「自己から他己に法を伝える」という構図が逆転して、「伝法が各己を定義する」ことになる。そうして法が波動のように社会空間を伝播し、「ウンマ」に平安をもたらす。これが大乗仏教、というより、「無我」を説いたブッダその人の構想だったのではないか。それならばムハンマドも、仏徒には仏徒のやりかたがあるくらいには思ってくれるかもしれない。   The problem is that Zen Buddhism is believed to be about Satori or enlightenment. If Satori is understood as an ultimate state of mind that can be attained through practice, then the focus of Buddhism would be on individuals who seek for perfect calmness and awareness, which is... Continue Reading →

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