なぜ座禅? | Why sitting?

江西の大寂が座禅しているところに、師匠の南嶽がやって来て、言った。 「座禅してどうする」 「仏になるのです」 すると南嶽は瓦を一枚もってきて、大寂の庵の前で研ぎはじめた。しばらく様子を見ていた大寂は南嶽に尋ねた。 「何をしてるんですか」 「磨いて鏡にするのだ」 「瓦を磨いて鏡になりますか」 「座禅して仏になるのか」 道元はこうコメントしている: あきらかにしりぬ、坐禅の作仏をまつにあらざる道理あり、作仏の坐禅にかかはれざる宗旨かくれず。 =これでわかった。座禅はさとりを待つのではない。さとりと座禅は関係ない。 |正法眼蔵第十二・坐禅箴 「なにも考えずただ座禅せよ」とか言ってきた禅坊主どもの目を覚ます一撃だ。 では、なぜ座禅するのか。つづく。 A monk Daijak of Kosey was practicing zazen at his place, where his teacher Nangak came and said, “What is your aim of zazen?” Daijak answered, “To become a buddha.” Then Nangak took up a clay tile and began to stroke... Continue Reading →

見通し | Vistas

「どんな研究所かって?そりゃ『正法眼蔵』の研究をやってるに決まってるだろ。でも、ストイックにそれだけっていうのも、なんだかな。ちょっと通りがかりの琵琶法師が一曲弾いていってくれてもいいし、浮世絵師が壁にサッと落書きしてくれてもいい。そのくらい奥が深くて間口も広い「蔵」でありたいもんだ。もっとも、そういうのをWebでどう作ればいいのかは全然わからないんだがね。 「ヒントをくれたのは、この本だよ。Bob Eckstein: Footnotes from the World’s Greatest Bookstores (藤村奈緒美訳『世界の夢の本屋さんに聞いた素敵な話』)。研究所の看板に書いた英語のフレーズも、この本に載ってた〝ギグルズ〟って本屋の看板からアイデアを戴いたものなんだ。いつか行ってみたいけど、チェンナイって遠いんだろうな…」 |所員 001・談 ––– If someone asks me about our Institution, I will say, of course, it is an institution for the study in Shobogenzo, a great text created in medieval Japan. But I feel like the Instituion should be more than that, more than just... Continue Reading →

花は愛惜にちり

「現成公案」章の冒頭は名文で、しかも難しい。その3番目のセンテンス。句読点は原文には無いはずだから外す。 仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに 生滅あり 迷悟あり 生仏あり しかもかくのごとくなりといへども 花は愛惜あいじゃくにちり 草は棄嫌におふるのみなり 名文の宿命として、深読みされやすい。とくに最後の、花と草のフレーズは、ここに禅の真髄ありみたいな解説をよくきく。だけど名文を書くのは道元には朝飯前なんだ。生まれたのが藤原家ですから。朝は和歌で起き、昼は漢詩で遊び、夜は枕草子で寝ていたでしょう。兄貴の通具なんか新古今和歌集の撰者ですし。 これを平凡な文に直せば、こうなるんじゃないだろうか。 –––仏道はもともと豊と倹(有り/無し)の世界を超え出ているので、生と滅、迷と悟、衆生と諸仏があるとはいえ、それは愛でられるか嫌われるかのちがいで花と草が分かれてしまうみたいな、その程度のことなのだ。どっちも植物、どっちも仏道だし。   The first paragraph of the chapter “Realization of Dharma” begins with beautiful phrases yet hard to understand. Its 3rd and 4th sentence, according to Tanahashi’s English edition, goes as follows: The buddha way, in essence, is leaping clear of abundance and lack; thus there is birth and death, delusion... Continue Reading →

さとりとほとけ | A split

「大悟」の章にいう、 大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す。これ仏祖家常なり。 :大いなる悟りを得たり、悟らないまま道をきわめたり、悟ってそれを自由自在に使いこなしたり、悟りを失くしたり放り投げたりする、それが仏祖の日常。 大悟・不悟・省悟・弄悟・失悟がフラットに並ぶ。仏教の常識がリセットされる。常識とはこうだった。仏道とは煩悩を去って悟りをめざすもの。大悟と不悟の間には雲泥の差がある。不悟にして道に至るなんて、ありえない。ところがここでは、大悟現成から失悟放行まで、すべてひとしく仏祖の「家常」だという。 もうひとつ。 大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。 仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。 :大悟をすべて集めても仏祖にならない。仏祖を全員集めても全大悟にならない。仏祖は大悟の限界の上を行き、大悟は仏祖の先に広がる。 悟りと仏の非平衡。仏 buddha の語源は〝悟った(覚った)人〟なんだけどね。語源がどうした。源からどこまで飛んでいくのか。   In the chapter of “Great Enlightenment” Dōgen says: As you walk the buddha's way, you may realize the greatest enlightenment, or stay afar from the slightest enlightenment, or catch a glimpse of enlightenment, or play with the enlightenment, or lose the enlightenment and... Continue Reading →

物質のさとり |matter of enlightenment

物と心の大きなちがいといえば、心はなかなか言うことをきいてくれないが、物は操作できる。改修できるし、新しく作ることもできる。設計・制作の対象になるってことだ。達人になるには相当の修業が必要であるとしても。 さて、ここに物心連続仮説を適用するとどうなるか。心は直接操作できない。だが心の周りにある物を荘厳しょうごん(仏教用語で〝美しく飾ること〟)することによって、心も荘厳される。荘厳波が物心の境界を透過して伝わるのだ。物から心へ、また心から物へ。しかも一つの物は多数の心によって見られ、触れられる。物が媒介になって、いくつもの心に伝播していく。 そういうことを道元はこの言葉で言っているんじゃないだろうか。 三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟す。 =三界の百草(世界に存在するあらゆる物)を拈とって大いなる悟りを得る。|正法眼蔵・大悟 「悟り」とは、心の中だけの出来事じゃないってことだ。   To say that mind and matter are continuous is not to say they are just one and the same. There are difference between them; mind has no weight, no form, no volume, no tangible surface, while matter can be designed, assembled, built, and rebuilt into anything by means... Continue Reading →

連続仮説 | theory of continuity

  「仏性」の巻にいう、 山河をみるは、仏性をみるなり。       /001/ 仏性というのは仏の本性って意味だけど、山河に仏の本性があるって、どういうこと?山や河がいつか仏に成るんですか?仏に成った山河はあるんですか?ふつうの山河とどうちがうんですか? –––––という疑問の数々はしばらく措いて、一つ気付くことは、このフレーズが向いているのが、自己の心のなかとかではなく、外にある風景 だということです。仏教って、長いこと、心の修業みたいな、煩悩を滅して悟りを開くみたいな、そういうことだと思われていたんじゃないですか?今でもそうですか?だとしたら、この言葉は、なにか根本的な仏教の書き換えの、一部が現われてるってことじゃないでしょうか。 どう書き換えられたかを解明したいんですけど、まず、心の内と外って、分かれていると考えることもできるし、分かれていないと考えることもできます。分かれているっていう方は哲学界では「物心二元論」とか「主客二元論」なんて言っていて、それについての理屈が巨大なものになっています。巨大なものはそっとしてやって、われわれは「分かれてない」論で行くことにします。 それで行けば、もし仏性が本来、心の中に存在するものだとしても、山河と心はつながっているわけなので、仏性は難なく心の外にも広がっていって山河を覆うということが、やすやすと理解できてしまうではありませんか。 以後、哲学界に対抗して、当研究所ではそれを「物心連続仮説」と呼ぶことにしましょう。   In the 3rd chapter “Busshō” of Shōbōgenzō, Dōgen says: To see the mountains and rivers is to see buddha-nature.      /001/ What does this sentence mean? Do the mountains and rivers have any nature shared with Buddha? Can a mountain become... Continue Reading →

神なき宗教 | Religion without God

  仏教が葬礼と結びつく以前、それは紛れもない思想だった。 サッカーにも思想がある。戦術の根底の、サッカーへの美意識や態度のようなもの。とりわけ監督の思想がそのチームのサッカーを決める。 もし監督がいなかったとしたら、どうか。チームが強くあるためには、共有可能な思想をプレーヤー一人一人が考え、磨き、伝え合わなければならない。ときにはクライフや、マラドーナや、ストイコビッチや、メッシのような、群を抜くプレーヤーが現われて大きな影響を与えることがあるとしても、永くは続かない。思想はたえず書き換えられていく。 神=監督のいない宗教。これが仏教だ。 1200年代、日本チームに「妖精」が登場した。その名は、道元。かれの神技いや、仏技を記録した『正法眼蔵』を解読し、その思想を再現するのが、この研究所の仕事だ。   Buddhism is a way of thought, although it works as part of funeral ceremony in modern Japan. Football needs thoughts. By "thought", I mean an attitude or aesthetic underlying particular strategies of football. Usually it is the coach who devises his thought and gives it to the players.... Continue Reading →

準備中

このブログサイトは、道元(1200–1253)の主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』についての研究を、より開放的な環境で進めるためのワン・ステップとして開設するものです。 制作:齋藤嘉文 |著書:『跳訳道元』ぷねうま舎 2017 This blog-site will soon be set up to enhance the research in Dogen's masterpiece, Shōbōgenzō (Treasury of the True Dharma Eye), in a more open environment. Written by Yoshifumi Saito, author of Choyaku Dogen (2017)

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