山水に証せられし夜 | The night with mountains and waters

宋に蘇軾そしょくという詩人がいた。日頃、仏法に心を寄せていた。ある夜、突然、谷のせせらぎが仏の説法のように聞こえる(渓声便是広長舌)。月下の山なみは仏の清浄身に見える(山色無非清浄身)。一夜にして聞く八万四千偈。これをどうして人に伝えたらよいものか。(偈げとは、韻文形式で仏法を述べたもの) いや、これは十分伝えているんじゃないだろうか。偈の内容はたしかに見えない。ただ渓と山の様子だけが描写されている。こころがものに託される。 あるいはいう、 仏道をならふといふは自己をならふ也 自己をならふといふは自己をわするるなり 自己をわするるといふは万法に証せらるるなり :正法眼蔵第一・現成公案 蘇軾の、山水に証せられし一夜。   In the Age of the Sòng dynasty there was a poet Sū Shì, who loved the Buddhist teachings. One night, water in the valley nearby sounded like voices of Buddha, and the mountain under the moonlight looked like a figure of Buddha. Eighty-four thousand verses were heard through... Continue Reading →

禅的「無我」| Leaving the self

解説書によると、ブッダは「無我」を説いたとされる。我が無いとは、どういう意味? 別のスタイルで表現すると、こんなかんじになる。 長沙ちょうしゃ景岑けいしん禅師に、ある僧とふ。「いかにしてか山河大地を転じて自己に帰せしめん」。師いはく、「いかにしてか自己を転じて山河大地に帰せしめん」。 ––– 正法眼蔵第二十五「渓声山色」 僧は「自己」を疑わない。疑いの対象は自己以外のものだ。疑いの解消は自己への帰着という形をとることになる。懐疑というやりかたは、安全な場所を確保してからやるもの。それを僧はあっさり師に見破られたというわけだ。   Gautama Buddha is said to have given a teaching of anātman, which denies the existence of 'self'. What does it mean? Putting the teaching in a Zen way of formulation, it will be transformed like: Once a monk asked Changsha, a Zen master of Jingcen, "How should I... Continue Reading →

花の辺り | Time of flower

花を生ければ、花の辺りが変わる。そこで、花の辺りまで含めて「花」と呼ぶ。どこまで「〜の辺り」というかは決まっていない。最大限にすれば、宇宙だ。花は無数に咲いているので、花の辺りも無数にあり、草の辺り、樹の辺り、水の辺り、山の辺りもやはり無数にある。その全部合わせたのが宇宙の辺りということになる。 正法眼蔵には、竹の辺りのことが書いてある。空間にかぎらない。時間に関しても「〜の辺り」はありうる。 修竹は長竹なり 陰陽の運なりといへども 陰陽をして運ならしむるに 修竹の年月あり |正法眼蔵第二十四・画餅 「陰陽の運」とは、自然界の法則を唐風に言ったものだ。修竹は陰陽に随って生長するのかと思ったら、陰陽の方が修竹に随って「運ならしめられている」というわけだ。 「辺り」のことを数学では「近傍」という。空間を近傍系とみる。それは20世紀前半にわかった。道元はこれを待っていたことだろう。   Put a vase of flowers somewhere, and you will see a change in the tone, air, or atmosphere of the space around the vase. A “flower” is considered to be a name not just for the plant but for the space (and time) that contains the plant. There is... Continue Reading →

ことばの工法 | Beams and Pillars

家の建て方に二通りある。地面から煉瓦を積み上げて行くのと、柱を立てて梁を渡して行くのと。そこで生まれ育つ感性も所作も、当然違ってくる。文明開化よりこのかた、見よう見まねで煉瓦を積むようになるうち、いつしかそれが標準の工法であったかのように見えてくる。一方、道元はなお平安文明の残り香の中にいた。その正法眼の蔵にはまちがいなく梁の技が駆使されている。それはたとえばこんなところ。 水をきはめ そらをきはめてのち 水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは 水にもそらにもみちをうべからず ところをうべからず このところをうればこの行李あんりしたがひて現成公案げんじょうこうあんす このみちをうればこの行李したがひて現成公案なり (水をきわめ空をきわめたのち水空を行こうとする鳥魚は、水に道なく、空に処がない。その処を得れば飛ぶ鳥の公案は解かれる。その道を得れば行く魚の公案は解かれる。) |正法眼蔵第一「現成公案」 と、 行はいく万程となくすすむといへども不測なり不窮なり はかる岸なし うかむ空なし しづむ底なきがゆゑに 測度するたれなし 測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり (魚は幾万里となく進むが、測るものはなく、果てがみえることもない。岸も、空も、水底もなく、ついには測る者もない。ただかぎりなく深く透明な水があるばかりだ。) 空の飛去ひこするとき 鳥も飛去するなり 鳥の飛去するに 空も飛去するなり 飛去を参究さんきゅうする道取どうしゅにいはく 只在這裏しざいしゃりなり (空が飛ぶとき鳥も飛ぶ。鳥が飛べば空も飛ぶ。飛ぶことの究極を尋ねれば、「只ただ這裏ここに在ること」と言う。) |正法眼蔵第十二「坐禅箴」 との間。   Two ways to build a house: one is to lay up solid matter like bricks or concrete into walls, the other is to set up pillars connected with beams. The structural difference results in the composition and quality of the space, which can... Continue Reading →

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