意味を変える | Change the meanings

迷いから悟りへの道。これが禅であり仏教であると、思ってきましたね。道元はそう思わない。 自己をはこびて万法を修証するを迷とす 万法すすみて自己を修証するはさとりなり | 正法眼蔵「現成公案」 この一文をじっくり見ると、迷もさとりも、なんらかの「境地」・心の「状態」ではなく、行為・行動と考えられています。自己が万法を修証「する」のを迷と呼び、万法が自己を修証「する」のを悟りという。迷・悟は向きが逆の、いわば、ベクトルなのです。ベクトルとは、高校で習ったことを思い出してください、習ってない人はいま知ってください、向きと強さをもち、位置をもたない、矢印のことです。位置がないのは状態がないことに対応します。どこにあってもベクトルとしては同じなのです。つまり迷と悟は、ただ向きがちがうだけの仏道上の運動であって、どっちも不可欠にして対等な要素なのだ。そう道元は言っているように、僕には読み取れます。   Most people, including most of the Zen masters, has considered Buddism as a road from delusion to awakening. Dogen did not. The way how one seeks for dharma is called "delusion", while the way how dharma comes to each being is called "awakening". | Realizing the point / Shobogenzo... Continue Reading →

偶然を設計する | Seeking for rareness

身心はうることやすし 世界に稲麻竹葦のごとし 法はあふことまれなり –––正法眼蔵第二十八・礼拝得髄 身心を得て人になるのは易しい。世に人は稲・麻・竹・葦のようにありふれている。だが逢うことも稀なものがある。それを「法」と言っているわけだが、これを「仏法」とか「真理」とかに置き換えてわかったつもりになるのも、どうなのか。 あふことまれなるもの。いったい何だろう。そのニュートリノみたいなやつを、もうすこし、「まれ」から「ときどき」ぐらいに遭遇確率を上げる道具はないものか。安藤忠雄は言った、建築は、偶然を設計することだと。そのために一枚の壁を立てて、刻々と変化する偶然を映す。稀なものを釣る。「自上金鱗」は、釣らずして金色に輝く大魚が自ら舟に上ってくるという、釣の名人を指す言葉。   It is so easy and common to receive body and mind; you find as many beings with them as rice, flax, bamboo, and reed. But it is rare to meet dharma. –––Receiving the Marrow by Bowing, Ch.28 Shobogenzo. Though "dharma" usually means truth in Buddhism, an extension is suggested to imply... Continue Reading →

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