最大感度 | Feeling the oscillation

諸仏の空間 Z は水面のように波動性があって、ある任意の一点の振動が速やかに、あるいは千年かけて、全空間を覆う。仏教徒が「修行」と呼ぶ訓練は、この振動に対する感度を最大にする努力なのだ。無限大の感度をもった眼には、山や海はこう見えるという: 而今の山水は古仏の道現成なり。ともに法位に住して究尽の功徳を成ぜり。 |正法眼蔵第二十九・山水経 而今(いま)ある山や水は、古いにしえの仏の道(ことば)である。ともに仏法の中にあって、功徳の限りを尽くす。–––古仏の覚りは現在の山河にまで達している。あの山もこの水も仏法に覆われている。これを「究尽の功徳」と言わずして、何と言おう。 山水が「古仏の道現成」つまり、覚りの表現であるというのは、少々説明を補う必要がある。ふたたび物心連続仮説が役に立つ。山水は、山水をみる眼や心と無関係には存在しない。Z における対象の名は、同時に、対象を見る眼の名なのだ。古仏の覚りは、山河を見る而今のあなたの眼に到達すると同時に、山河にも到達する。   Space Z of buddhas, described in Shōbōgenzō, seems to be like a water surface: an oscillation at any one point propagates to the space’s furthest end in one second or in thousands of years. Shugyō, the trainings which buddhist monks are engaged in, is an effort to... Continue Reading →

覚者の夢 | As real as unreal

D75 の記述する空間 Z には「リアル」と「アンリアル」という二個の部分空間がある。現実と空想とも言う。両者は物質的基盤に接地されているかいないかで区別される。「物質的」というのを正確に定義するのは面倒なことになりそうなので、ここはたんに「基盤」と呼んでおけばよい。要するに、基という形容詞の付いた盤に接続しているのがリアルであり、していなければアンリアルということだ。特徴的なのは、この盤が、Z では “通常” より小さいのである。言い換えれば、アンリアルがリアルとほとんど対等なのだ。なぜなら D75 にはこう書かれているからだ(文中、「覚」がリアルに、「夢」がアンリアルに相当する)。 夢・覚、おのおの実相なり。大小せず、勝劣せず。 :正法眼蔵「夢中説夢」 夢にみる世界も、覚めてみる世界も、ともに実世界であって、差はないというのだ。そればかりか、 釈迦牟尼仏および一切の諸仏諸祖、みな夢中に発心修行し、成等正覚するなり。 :同 ブッダはじめ諸仏諸祖はみなアンリアルの領域で仏道に目覚め、修行を続け、正覚を得たのだという。通常の世界 W に棲息する人類にとっては受け入れられない話である。W のブッダはまちがいなく覚めていたし、彼の弟子たちは現実にその教えを展開していったのであり夢なんか見ていたわけではない。少なくとも仏教史はそう語っている。だが Z では、仏道は「現実」を越えて展開した。もしそうなら、仏教史学者の扱える範囲を仏道は逸脱しているわけだ。ていうか、逸脱していいのだ。   The space Z described in D75 has two subspaces, REAL and UNREAL, which are distinguished by the condition whether or not it has a material basis. Because clarifying the meaning of ‘material’ would be... Continue Reading →

透明な層 | Transparent layers

当研究所の業務は暗号解読と言ってもいい。われわれは、13世紀に日本で書かれたということしかわかっていない暗号文書 D75 を解いてほしいと依頼された。誰からの依頼かは忘れてしまったし、気にしていない。これまでに解読できた部分から推定すると、どうやら D75 はある稀有な様相をもった空間の仕様を記述しているらしい。その空間を仮に「Z」とすると、Z の風景がまるで現実のもののように立ち現われる–––現成する–––ところまで解読が進捗したとき、この世界にどんな変容が起きるのか、それはわれわれにも予測できない。 解読の最大の障害は、目の前の暗号の難解さではなく、日頃あたりまえのように受け入れている常識だ。今日もその一つを乗り越えなければならなかった。「夢中説夢」、夢の中で夢を説く。 Z では、それは "現実離れ" という意味ではない。夢の中で説かれた何ものかを、やはり夢と呼ぶ。階層の区別を示すはずの「中」というコードが無視され、夢とそこから生み出されるものとの区別が消失した景観が出現する。 Z の階層が透過される。スティーブン・ホールに倣って言えば、世界を成り立たせている見かけだけの階層に無数の孔が穿たれる。 正法眼蔵第二十七「夢中説夢」から Our institute's mission is a kind of code-cracking. We are requested to solve Shōbōgenzō, which is D75 in our designation, a huge collection of ancient codes written by a Japanese monk Dōgen. What has been revealed so far is that D75 seems to be... Continue Reading →

未体験の光 | Light that you never saw

何もない空間に光だけがあっても、光は見えないにちがいない。照らされる物によってはじめて光の存在を知る。物はいわば、光の器だ。 人は何の器だろうか。人間の身体も物にちがいないので、人もまず光の器だ。デザイナーはその素材と色彩について考え、フィギュアスケーターはそれを動く器に変える。未体験の光を見せるために、かれらは技を磨きつづける。光だけではない。音も、風も、法もある。法とは仏法、覚めたる者 "buddha" の智慧だ。人よ、法の器となれ。そう諸仏は教えた。 万象これ月光にして、万象にあらず。 |正法眼蔵第二十三・都機 煌々たる月夜。山も河も草も石も、もはや月光そのものと区別がつかない。   Light would not be visible if there were no objects to reflect it. By objects and only by objects, light can acquire its shape, color and presence. What would it be that acquires its presence on us, human beings. One thing is light, of course, because our... Continue Reading →

意味を設計する | Design the meanings

「すべての物事を対等なものとしてみる」ことの反対は、「物事に差をつけてみる」ことだ。「差」の根拠は、価値や意味や順序だ。それらはキャンセルできる、と「対等」観はいう。仏教っぽく言えば、価値も意味も順序も皆な「空」というわけだ。 一切対等、一切皆空ならば、部分と全体は等しく、微小と極大は等しく、一瞬は永遠に等しいことになる。それはなにか起伏のない、のっぺらぼうで退屈な風景になりはしないか。ならない。対等観〜空観は、価値や意味のシステムを破壊するためにあるのではないからだ。むしろ、キャンセルできるとわかっていればこそ、価値や意味を使いこなし、設計すらできる。 …なんてことを正法眼蔵「全機」の章から読み取ったのだが、どの文がそう言っているのか特定できない。たぶん、行間に書いてあるのだ。   In the opposite side of “looking all beings as equal” is the idea of differentiation, where things are arranged in distinct classes based on values, meanings, or orders that are, from the equalist point of view, to be cancelled. Using a more Buddhist term, they are “empty”. Assuming all things are... Continue Reading →

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