はじめて陸をみた | An amphibian’s surprise

新しいテーマを始めよう。正法眼蔵に何度も登場する仏祖について。 歩き始めたばかりの子は一歩あるく毎度、発見の連続にちがいない。はじめて陸地を発見した初期両生類は、日々、眼を開けているだけで驚きつづけていたにちがいない。その感覚は大人になっても哺乳類になっても、失われてはいないだろう。形を変えて保存されているのだろう。その無意識の底に生きつづけているはずの感覚に、どんな名を与えるか。黄檗おうばく(? - 850) はそれを「心」とよぶ。喜怒哀楽するおなじみの心のことではない。 師謂休曰、「諸仏与一切衆生、唯是一心、更無別法」。 師(黄檗)はわたくし休(裴休)に言った、「諸仏も、一切の衆生も、ただこの一心にほかならず、それ以外になにもない」。 此心即是仏、仏即是衆生。為衆生時、此心不減。為諸仏時、此心不添。 |黄檗『伝心法要』〔一〕 この心が仏であり、仏はすなわち衆生である。衆生である時この心が少ないわけではない。仏である時この心が増えるということもない。 黄檗は、衆生と仏の境界を抹消している。紀元前のインド以来蓄積されてきた「仏教語」の外で、仏を再定義しようとしている。かれはそれを仏といわず、心というのだ。   Let us start a new subject; introducing the thoughts of the buddha ancestors frequently mentioned in Shobogenzo. The first ancestor to be discussed is 黄檗=Huangbo Xiyun (?–850). Imagine an infant just beginning to walk, or an early amphibian having met with dry land.... Continue Reading →

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