“微分” された真実|Reality differentiated (2/3)

道元は続ける: 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり迷悟あり生仏あり、しかもかくのごとくなりといへども花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。 豊と倹、つまり多少・大小・高低など積分的・構造的な示標で記述される世界から仏道は跳出することを求める。したがって、生と滅、迷と悟、衆生と諸仏などといった別があるとしても、それを〝微分〟して仏道のテクスチャーを観察してみれば、いずれも連続的であり、「花」と「草」に本質的な区別はないのである。 仮説。『正法眼蔵』は仏法の解析学である。 それを創始したのは道元ではなく、ブッダである。仏法は始めから〝解析的〟だった。「マーガンディヤよ、わたしには『このことを説く』ということがない」(スッタ・ニパータ)の言葉は、仏法には静的パラメータがないことを示唆する。達磨が梁武帝に仏法の根本義(聖諦)は何かと尋ねられた際も、かれは「廓然無聖(廓然=からっぽ)」と答えた(碧巌録第一則)。 あるいはいう、 説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。 これは「説心説性」というフレーズに関する考察の一部だが、一見、意味不明である。ふつうに読めば「心を説き、性を説く」(性とは、仏性のことである)となるのを、説と性が等置されている。さらに「仏祖の嫡孫」が逆転して「嫡孫の仏祖」となる。これらは文法という言語のストラクチャーに留まるかぎり、ありえない構文である。だがもしストラクチャーを離れ、助詞「の」の統語機能を脱落させれば「の」は単なる連結要素にすぎなくなり、「仏祖の嫡孫」は「嫡孫の仏祖」に容易に逆転する。また「説」と「性」の間の V-O 構造(動詞-目的語)が解除されれば、「仏性の存在とそれを説くこととの等価」という解も、また可能になる。   Dōgen says, The buddha way, in essence, is leaping clear of abundance and lack; thus –– acknowledging that there is birth and death, delusion and wakefulness, mundane beings and buddhas –– it is just that blossoms fall in attachment and weeds spread in aversion.... Continue Reading →

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