ガガーリンは見た | Color of the boundary

数学に「開集合」というものがある。その集合には輪郭がない。 考えてみれば不思議なことだ。たいていのものに輪郭はある。あるからこそ線で絵は描けるし、設計図面もつまりは輪郭線の集まりだ。心象とか記憶とかは別として、目に見え指に触れるようなものなら輪郭がないなどということは考えられない。それどころか、イスラームやキリスト教はそもそもこの世界に輪郭をもたせている。出発点(創世)と終止点(終末)を設定するわけですからね。 その意味では、20世紀の宇宙開発はリアルに世界の輪郭を見ようという試みだったのかもしれない。人類最初に地球の輪郭を見たガガーリン少佐の言葉、「地球は青かった」は今も忘れない。その「青」はもちろん、地球の輪郭面の色だ。 輪郭は外からしか見えない。ここがポイントだ。道元の「虚空のごとく般若を学ぶべし」を、もし「輪郭のない知」の意味にとるなら、それは宇宙からではなく地上で地球を見よということ、ではないか。般若を、開集合系として構成せよということではないか。どうやったらそれができるかは、わからないが。   Topology is a theory of mathematics. Its basic idea is the open sets, which has no boundaries of their own. This seems quite strange because every ordinary objects like desks, notebooks, cups and bottles have their boundaries defining themselves distinct from other objects or the space around them. It seems... Continue Reading →

空に境がないように|Vanishing boundaries

『大般若経』の一節。帝釈天が須菩提に尋ねる、「菩薩が般若を学ぼうとするとき、どう学ぶのだね?」 須菩提は答える、「帝釈よ、菩薩は虚空のように般若を学ぶのだ(如虚空学)」 これを、 般若は虚空のような知であると読むか。それとも、学般若は虚空を飛ぶような体験であると読むか。ここで道元は「〜ような」を落とす: しかあれば学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。 ––– 正法眼蔵第二・摩訶般若波羅蜜 論理が崩れている。「空」は名詞、「学」は動詞。動詞と名詞は類が異なる。この越えてはならないであろう境界が崩れ去っている。それでもなにかを認識し、その認識を伝達することは可能なのだろうか。論理や類別は認識と言語のために築かれたのではなかったか。 道元はまた言っている。 空の飛去するとき鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに空も飛去するなり。 ––– 正法眼蔵第十二・坐禅箴 鳥が飛ぶのか、空が飛ぶのか。飛に空もなく、鳥もないという。あるいは、空であり鳥である飛しかないのだと。   In Mahaprajna Sutra, Indra asks Subhuti, "Great reverend, if a bodhisattva wishes to learn prajna, the perfect wisdom, how should he learn it?" Subhuti replied, "Lord Indra, he should learn prajna like the sky." Subhuti's answer probably means either that prajna is... Continue Reading →

空と水と谷|Prajna as an experience of the sky

たとえば京都駅のコンコースは「谷」のように設計されている。「両岸」にいろいろな形をした「岩」や、色合いの異なる「地層」が露出している。見上げれば、切り取られた空を雲が流れ、足もとには60m上空の鉄骨フレームの影が樹影のように落ちている。設計者・原広司はこれを空間の「情景図式」または「様相」と呼んでいる。様相は図面上には書くことができない。図面の先に立ち現われ、それを人は体験する。 テキストにもやはり様相はあるのだろうか。あるはずだ。読むという行為は文字をただ追うことではなく、文字が立ち現わす様相を体験することだと思うからだ。意味を理解することは、様相体験の一部だ。 正法眼蔵には「空」と「水」の喩えがよく使われる。道元はこう言っている: 学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。 |正法眼蔵第二「摩訶般若波羅蜜」 般若はんにゃとは、「諸法の道理を見抜く智慧、直証的な智慧」と仏教辞典(岩波、第二版)は定義している。その般若が空そらなのではなく、般若を学ぶことが空であり、空は般若を学ぶことなのだという。どういうこと?   Designed as a ‘valley’ within a cityscape, Kyoto Railway Station’s concourse exhibits ‘rocks’ and ‘strata’ of various shapes and colors on its high interior cliff, with drifting clouds in the sky above and shadows of the roof frames falling on the floor below. Hiroshi Hara, the architect, called... Continue Reading →

虚空の如く | Minimizing the distance between Buddha and God

仏教について考えるとき、いつも気になっているのは、その対極にあるように見える一神教のことだ。ほんとうに対極なのだろうか。 たとえば黄檗は金光明経を引用していう、 仏の真法身はあたかも虚空のようだ。(仏真法身猶如虚空) これは神についても成り立たないか。神はあたかも虚空のように姿かたちをもたず、しかもなお地上のすべての者を覆って存在する。だから神の像は造れない(造ってはならない、ではなく)。すると、仏像とはなんなのか。造像はアレクサンドロスの中央アジア〜インド遠征以降、ギリシャ系入植者によって開始されたとする通説に従えば、仏教にとっては二次的なものということになる。それだけでなく、大乗涅槃経の説くところでは、ブッダ入滅に際して、生きていたブッダに代ったのは精巧な再現像ではなく、抽象的な仏性だった。仏の真法身はずっと「虚空の如く」あり続けたのだ。 数についてはどうか。「八万四千諸仏」と「唯一神」とははるかに異なるように思える。しかし金光明経は上の語に続けていう、 〔仏真法身は〕物に応じて形を現じる。ちょうど水に映る月のようだ。(応物現形如水中月) 山河大地日月星辰あらゆる物に諸仏としてすがたを現すその真の法身は、すがたなくかたちなく、処在なきがゆえに遍在する。数えられるような対象ではないという意味で、やはり「唯一」なのだ。唯一の遍在する仏が「物に応じて」八万四千の諸仏と現じる。   Think about a contrast between Buddhism and monotheism. Is it really a contrast? Huangbo quotes a passage from Suvarṇaprabhāsottama Sūtra: True body of dharma is just like the sky. God is without form, present above all the beings on the earth. Isn't it precisely how the sky is... Continue Reading →

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