春はあけぼの | At blossoms we meet spring

春は花にいり、人ははるにあふ。 (正法眼蔵第四十三・諸法実相) 人は春に直接逢うことはない。「花で」春に逢うわけだ。「風で」逢い、「色で」逢い、「言葉で」逢う。逢いかたによって少しずつちがった春になるかもしれないが、それでも春に変わりない。同じように、花で風で色で言葉で、「秋」に逢い、「冬」に逢い、「時」に逢い、「時の移り行き」に逢い、「地形」に逢い、「地形の移り行き」に逢い、その他さまざまの「 」に逢う。 一般化すれば、人はXを経由してYに逢う。ただしXは具体的・物質的なもので、Yはなんといえばいいだろう、様子とでもいおうか、Xよりも抽象的・普遍的なものだ。道元はそれを「実相」とよび、具体的な花や風は「諸法」と呼ばれる(仏教用語でいう「法」は意味が広く、事物という意味もある)。諸法と実相の関係。ここにもしかして、いろいろな秘密が密集しているんじゃないだろうか。   Dogen says, Spring enters blossoms and one encounters spring. ––– ‘All Things and Their Modalities’ in Shobogenzo Spring is a kind of entity that never be directly encountered; we only experience it at blossoms, as well as at wind, at colors of the sky, at words of conversation, etc. Thousands... Continue Reading →

無差別の道 | Absolutely equal

なにか特に大切にしたいものがあるとして、それを仏教の場合は「さとり」とか「菩提」と呼ぶわけだが、仏教に限らなくてもいいので、それをSとしよう。道元はこう言っているように思える。Sに会って歓喜し、会えなくて悲嘆に沈むなら、Sが、悲しむ者と喜ぶ者とを作り出していることになる。多くの経典の伝える「無差別」の法はそういうことではないはずだ。Sが執着の対象となり、差別を生成するのなら、たとえそれが覚りであろうと無上菩提であろうと、仏法の原則に反する。これを道元はどう回避しているか。その言葉を聴こう。 ...しかのごとくにあらざれば学道にあらず。このゆゑに得道の得道せず、不得道のとき不得道ならざるなり。得不の時節、ともに蹉過さかするなり。 |正法眼蔵第四十二・説心説性 (...そうでなければ学びの道ではない。道を得ても得ず、得なくても得ないということにならない。得る時、得ない時、その両方にすれちがってしまう。) なにかを批判している文脈だが、注目すべきは、「得道」と「不得道」に等しい態度をとっていることだ。道を「得る」だけでなく、「得ない」ことも同じく道の要素と考えている。Sが道にあるならば、 –Sもやはり道にある。覚りに到りえたから仏なのではない。到っても到らなくても、道を歩きつづける者が仏なのだ。   Let S be a special point or state that is assumed to be most important within any given field. S in Buddhism is considered to be satori or nirvāṇa. But Dōgen seems to hold a view against assigning a special state within the Buddhist practice: If a supposed... Continue Reading →

「この惑星」の内部 | Under the surface of this planet

華厳経にいう、 三界の所有は唯是れ一心なり 三界とは生きものが輪廻する三つの世界のことで、輪廻の分があるから「三」なのだが、要するにそれを含めて「世界」のことだ。「世界に有るところのものはただ一つ、心だ」と言っている。 これがいわゆる唯心論と同じかどうか。たぶんちがうと予想。つまり重点は「心」ではなく「一」にある。「三界の所有は唯是れ 一物 なり」と言っても同じということだ。なぜか。当研究所がしばしば用いる「物心連続仮説」をご存知の方は一瞬でわかるはずだ。ご存知でなければ、別解をここに示す。 華厳経は「心」がなにか、「心」にはどんなメカニズムがあって三界を形成しているか、ということには関心を払っていない。ということは、「心」は無定義用語、つまり幾何学者が「点」を定義しない(する必要がない)のと同じく、仮に選んだ記号にすぎない。何でもかまわない。三界を構成するものは一つしかない。それを心とする。物としてもいい。要は、三界には区別というものが存在しないと。 SFみたいに言うと、通常の惑星の三界は種々の区別、したがって構造をもっている。しかし惑星Zの華厳経にはそれがない。まるで、地形が形成されない恒星のような状態を華厳経が記述しているかのようだ。地球はどうなのか。その表層の起伏を掘削すれば、もしかすると地底からZが出現するのではないか。   In Avataṃsaka Sūtra, Buddha says: “Mind is the one and only one element throughout the three realms." Though the idea of 'three realms', or three worlds, sounds fantastic suggesting a SF-like scenario, it is actually a samsaric extension of the mundane world. The point is that Buddha proposes... Continue Reading →

空はいつ地に落ちる | When the sky falls

僧が趙州和尚に言った、栢樹ヒノキに仏性は有りますか。和尚、有る。栢樹はいつ仏に成りますか。空が地に落ちる時じゃ。空はいつ地に落ちますか。栢樹が仏に成る時じゃ。 「栢樹」は樹の名であると同時に、それを眺めるあなたの名である。あなたは別に某という名を持っているかもしれないが、栢樹を見ているときには栢樹なのであり、海を見ているときには海、花を見ているときには花なのだ。栢樹が仏に成る時、あなたは仏になる。もう少し説明的に言えば、栢樹を見るあなたの眼が仏の眼に成る。つまり眼が覚める。その眼を向ければ、栢樹は仏に成っている。 眼があなたに属すと考えるのを止め、これを道具と思う。道具としての眼の扱いを修行し、熟達して、あたかもそれが自分の眼であるかの如くに感じられた時はじめて、あなたは「見る」ことができる。もはや、空が日々地に落ちるのがありありと見える。あなたは言うだろう、 栢樹子の成仏する毎度に虚空落地するなり。その落地、響かくれざること百千の雷よりもすぎたり。 正法眼蔵第四十「栢樹子」 (栢樹が仏になる毎度に空が落ちる。落ちる毎度に百千の雷が同時に鳴るよりも激しい音が響きわたる。)   A monk asked the master Zhàozhōu if the cypress tree has buddha nature. Zhàozhōu answered, “It has”. The monk asked further, “Then, when does it become buddha?” Zhàozhōu: “Wait till the sky falls to the ground.” The monk: “When does the sky fall to the ground?” Zhàozhōu: “Wait... Continue Reading →

最大感度 | Feeling the oscillation

諸仏の空間 Z は水面のように波動性があって、ある任意の一点の振動が速やかに、あるいは千年かけて、全空間を覆う。仏教徒が「修行」と呼ぶ訓練は、この振動に対する感度を最大にする努力なのだ。無限大の感度をもった眼には、山や海はこう見えるという: 而今の山水は古仏の道現成なり。ともに法位に住して究尽の功徳を成ぜり。 |正法眼蔵第二十九・山水経 而今(いま)ある山や水は、古いにしえの仏の道(ことば)である。ともに仏法の中にあって、功徳の限りを尽くす。–––古仏の覚りは現在の山河にまで達している。あの山もこの水も仏法に覆われている。これを「究尽の功徳」と言わずして、何と言おう。 山水が「古仏の道現成」つまり、覚りの表現であるというのは、少々説明を補う必要がある。ふたたび物心連続仮説が役に立つ。山水は、山水をみる眼や心と無関係には存在しない。Z における対象の名は、同時に、対象を見る眼の名なのだ。古仏の覚りは、山河を見る而今のあなたの眼に到達すると同時に、山河にも到達する。   Space Z of buddhas, described in Shōbōgenzō, seems to be like a water surface: an oscillation at any one point propagates to the space’s furthest end in one second or in thousands of years. Shugyō, the trainings which buddhist monks are engaged in, is an effort to... Continue Reading →

覚者の夢 | As real as unreal

D75 の記述する空間 Z には「リアル」と「アンリアル」という二個の部分空間がある。現実と空想とも言う。両者は物質的基盤に接地されているかいないかで区別される。「物質的」というのを正確に定義するのは面倒なことになりそうなので、ここはたんに「基盤」と呼んでおけばよい。要するに、基という形容詞の付いた盤に接続しているのがリアルであり、していなければアンリアルということだ。特徴的なのは、この盤が、Z では “通常” より小さいのである。言い換えれば、アンリアルがリアルとほとんど対等なのだ。なぜなら D75 にはこう書かれているからだ(文中、「覚」がリアルに、「夢」がアンリアルに相当する)。 夢・覚、おのおの実相なり。大小せず、勝劣せず。 :正法眼蔵「夢中説夢」 夢にみる世界も、覚めてみる世界も、ともに実世界であって、差はないというのだ。そればかりか、 釈迦牟尼仏および一切の諸仏諸祖、みな夢中に発心修行し、成等正覚するなり。 :同 ブッダはじめ諸仏諸祖はみなアンリアルの領域で仏道に目覚め、修行を続け、正覚を得たのだという。通常の世界 W に棲息する人類にとっては受け入れられない話である。W のブッダはまちがいなく覚めていたし、彼の弟子たちは現実にその教えを展開していったのであり夢なんか見ていたわけではない。少なくとも仏教史はそう語っている。だが Z では、仏道は「現実」を越えて展開した。もしそうなら、仏教史学者の扱える範囲を仏道は逸脱しているわけだ。ていうか、逸脱していいのだ。   The space Z described in D75 has two subspaces, REAL and UNREAL, which are distinguished by the condition whether or not it has a material basis. Because clarifying the meaning of ‘material’ would be... Continue Reading →

透明な層 | Transparent layers

当研究所の業務は暗号解読と言ってもいい。われわれは、13世紀に日本で書かれたということしかわかっていない暗号文書 D75 を解いてほしいと依頼された。誰からの依頼かは忘れてしまったし、気にしていない。これまでに解読できた部分から推定すると、どうやら D75 はある稀有な様相をもった空間の仕様を記述しているらしい。その空間を仮に「Z」とすると、Z の風景がまるで現実のもののように立ち現われる–––現成する–––ところまで解読が進捗したとき、この世界にどんな変容が起きるのか、それはわれわれにも予測できない。 解読の最大の障害は、目の前の暗号の難解さではなく、日頃あたりまえのように受け入れている常識だ。今日もその一つを乗り越えなければならなかった。「夢中説夢」、夢の中で夢を説く。 Z では、それは "現実離れ" という意味ではない。夢の中で説かれた何ものかを、やはり夢と呼ぶ。階層の区別を示すはずの「中」というコードが無視され、夢とそこから生み出されるものとの区別が消失した景観が出現する。 Z の階層が透過される。スティーブン・ホールに倣って言えば、世界を成り立たせている見かけだけの階層に無数の孔が穿たれる。 正法眼蔵第二十七「夢中説夢」から Our institute's mission is a kind of code-cracking. We are requested to solve Shōbōgenzō, which is D75 in our designation, a huge collection of ancient codes written by a Japanese monk Dōgen. What has been revealed so far is that D75 seems to be... Continue Reading →

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