無差別の道 | Absolutely equal

なにか特に大切にしたいものがあるとして、それを仏教の場合は「さとり」とか「菩提」と呼ぶわけだが、仏教に限らなくてもいいので、それをSとしよう。道元はこう言っているように思える。Sに会って歓喜し、会えなくて悲嘆に沈むなら、Sが、悲しむ者と喜ぶ者とを作り出していることになる。多くの経典の伝える「無差別」の法はそういうことではないはずだ。Sが執着の対象となり、差別を生成するのなら、たとえそれが覚りであろうと無上菩提であろうと、仏法の原則に反する。これを道元はどう回避しているか。その言葉を聴こう。 ...しかのごとくにあらざれば学道にあらず。このゆゑに得道の得道せず、不得道のとき不得道ならざるなり。得不の時節、ともに蹉過さかするなり。 |正法眼蔵第四十二・説心説性 (...そうでなければ学びの道ではない。道を得ても得ず、得なくても得ないということにならない。得る時、得ない時、その両方にすれちがってしまう。) なにかを批判している文脈だが、注目すべきは、「得道」と「不得道」に等しい態度をとっていることだ。道を「得る」だけでなく、「得ない」ことも同じく道の要素と考えている。Sが道にあるならば、 –Sもやはり道にある。覚りに到りえたから仏なのではない。到っても到らなくても、道を歩きつづける者が仏なのだ。   Let S be a special point or state that is assumed to be most important within any given field. S in Buddhism is considered to be satori or nirvāṇa. But Dōgen seems to hold a view against assigning a special state within the Buddhist practice: If a supposed... Continue Reading →

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