ウンマの「さとり」| Enlightenment over society

「さとり」は仏教のキーワードなのだが、これを個人が体験的に到達する境地みたいに理解すると、仏教とくに禅仏教は心の平安を得るためのトランキライザーになりかねない。そういうことであれば仏教以前にすでにバラモンの修行者たちがより大きなスケールで「宇宙と自我との合一」を求めて瞑想をしていたのだし、ブッダがそのバラモン教を批判して新たな宗教運動を起す必要もなかっただろう。あるムスリムが SNS 上でさとりを至上目標とする仏教徒を笑っていたが、はじめからウンマ(社会、一般にはイスラーム共同体と訳される)を中心に考えるかれらからすれば、笑われても仕方のないところだ。 仏教もじつはすでに二千年前に自己批判して、自己の得悟とともに他者への慈悲を基本原則に加えた。大乗仏教という。時々その初心が忘れられてしまうようなので、ここで確認しておきたい。もちろん道元はその継承者だ。たとえば正法眼蔵のこのフレーズ: 達磨すでに伝与するときは達磨なり 二祖すでに得髄するには達磨なり |第三十八・葛藤 中国仏教の初祖・達磨がその法を二祖・慧可に伝えた。伝法が「達磨」と「慧可」の差を消滅させるというのだ。「得髄」には故事があるが、さしあたりここでは〝仏法の真髄を得ること〟と理解しておいていい。「自己から他己に法を伝える」という構図が逆転して、「伝法が各己を定義する」ことになる。そうして法が波動のように社会空間を伝播し、「ウンマ」に平安をもたらす。これが大乗仏教、というより、「無我」を説いたブッダその人の構想だったのではないか。それならばムハンマドも、仏徒には仏徒のやりかたがあるくらいには思ってくれるかもしれない。   The problem is that Zen Buddhism is believed to be about Satori or enlightenment. If Satori is understood as an ultimate state of mind that can be attained through practice, then the focus of Buddhism would be on individuals who seek for perfect calmness and awareness, which is... Continue Reading →

世界の出口 | A Way Out

一神教/多神教という分類があるが、誤解の源泉だと思う。数の問題ではないからだ。 伊勢神宮にはアマテラスとトヨウケの二神が祀られている。これらは対等ではない。トヨウケがアマテラスに仕える関係だ。推測するに、トヨウケとは、古代前期に小さなクニグニが点在していた日本列島で、各クニごとに存在したローカルな主神の一つだった。やがてヤマトがそれらを征服・統一していくなかで、ヤマトの主神アマテラスとローカルな神々との関係を象徴的に示すモデルとして、伊勢のトヨウケが選ばれたのではないか。 A common classification of religions into monotheism and polytheism would be misleading because what really matters is not the number of deities. Ise Shrine, a major sanctuary of Shinto that is the native religion of Japan, has two gods Amateras and Toyowuke on its sacred board. They are not equal to each other;... Continue Reading →

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