火のわざ | Silent battle by the hearth

胡来胡現、漢来漢現の古鏡が、とうとう物理的サイズまで制御自在になった。| The Old Mirror, which let hu and han appear exactly as they are, has now achieved higher flexibility... 雪峰が言う、 世界闊一丈、古鏡闊一丈。(世界の大きさが一丈なら、古鏡の大きさも一丈。) 世界闊一尺、古鏡闊一尺。(世界の大きさが一尺なら、古鏡の大きさも一尺。) 今回は大小だ。一丈が来れば一丈を現し、一尺で来れば一尺であらわす。そこにふたたび玄沙が登場。火炉いろりを指して言う、 火炉闊多少。(火炉の大きさはどうなんですか?) たまたま火炉がそこにあったのか。襖や壁でもよかったのか。だがもし火である必要があったとすれば、火は煩悩の比喩だからか。煩悩の炉とは、衆生の心だ。すると雪峰は、 似古鏡闊。(古鏡ぐらいだ。) と答えた。火は煩悩、鏡はさとりの喩えに使われる。「煩悩すなわち涅槃」「迷即悟」という禅仏教の公式が思い浮かぶ。それを雪峰や玄沙が知らないはずはない。知った上で玄沙は火炉の闊ひろさを尋ねる。予測できないのは、雪峰がどう応えるかだ。だが雪峰はあっさり公式で答えた。そこで玄沙はいう、 老和尚脚跟未点地在。(和尚、地に足が付いていませんね。) 「和尚は火炉の大きさについてもっとしっかり反応すべきだった」という批判ともとれるし、「相変わらずどこにも着地せず、名人の身のこなしだ」と称賛しているともとれる。私としては、ここは玄沙の火炉に「技あり」を認めたい。それが煩悩の喩えであってもなくても、世界/古鏡という抽象度の高い二極の間に、同系の「明鏡」ではなく、異質な「火炉」を置いた。さすがは雪峰、すぐにこれを認めて、公式をもってきて降参した。もちろん降参のしかたにも名人の技量は隠せない。「似古鏡闊」、古鏡の闊さと「同」じとは言わずに、玄沙を少しだけ不安にさせる。 –––正法眼蔵第十九「古鏡」 One day Xuefeng talked to the assembly, While the world’s width is 1 zhàng, the Old Mirror’s width is 1 zhàng. While the world’s width is 1... Continue Reading →

至現は現すことなく | The ultimate mirror is no mirror

雪峰の古鏡、玄沙の明鏡について、道元はこう言っている。古鏡と明鏡は別の鏡ではない... | Dogen remarks on the "old" and "bright" mirrors that they are not distinct nor identical. 明鏡来はたとひ明鏡来なりとも、二枚なるべからざるなり。たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり、明鏡はこれ明鏡なり。......しかあれば明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。 |正法眼蔵第十九・古鏡 古鏡に明鏡をもってきても、鏡が二枚になったわけではない。二枚ではないにせよ、しかし古鏡は古鏡、明鏡は明鏡だ。さて明鏡の「明」と古鏡の「古」は、同じなのかちがうのか。 それを知りたいのに、教えないのが一流のコーチというものだ。考えるしかない。万物万象を現うつす古鏡と、現すべき一物もない明鏡。ここで古代中国のある伝説を思い出す。いにしえの弓の名人の語った言葉だ(中島敦『名人伝』)。 至為は為す無く 至言は言を去り 至射は射ることなし 胡が来れば胡を現し、漢が来れば漢を現すまでに磨かれた古鏡は、所詮、現之現というもの。至現は胡漢ともに去り、ついには鏡さえ要しない。だから道元は言ったのだ、 いま雪峰道の胡漢倶隠、さらにいふべし、鏡也自隠なるべし。 ––– 雪峰は胡も漢も倶ともに隠れると道いったが、さらにこういうべきだった、鏡もまた隠れると。   On Xuefeng's old mirror and Xuansha's bright mirror, Dogen commented as follows: Even after the bright mirror comes up, there are not two mirrors. Although there are not... Continue Reading →

Blog at WordPress.com.

Up ↑

%d bloggers like this: