微分された世界 | Differential dharma

物理学者・苑田尚之は「数式は言語である」と言った。もし物理現象を数式なしに日常言語だけで述べようとしたら、長さだけでも100倍は下回らないだろう。複雑かつ膨大な説明を 1/100 以下に圧縮・軽量化してしまう数学という言語を、使わない手はない。 古代インド。王があるとき大勢の高僧を招いてパーティを催した。皆、王の前に出て経典の一節を読誦し、解説する。ところがひとり般若多羅はんにゃたらは何もしない。王が不信に思って問い質すと、般若多羅は言った。わたしは諸縁と我身とを離れたところに在って、今も眼前にある「経」を読誦している。一巻や二巻どころではなく、百千万億巻をずっと誦み続けている。 「我身を離れ」は原文では「不居蘊界」である。蘊は「我身」を成す物理的・心的要素の集積を意味する。「蘊界に居ない」。物心界つまり世界の外部。これを日常言語で語るのは至難だ。日常はまさに蘊界にほかならないのだから。ニュートンはどうしたか。 収縮している宇宙があるとしよう。その宇宙には中心 (O) があって、恒星も惑星も微小な粒子も、すべての天体が O に向かって収縮している。それは次の微分方程式で記述されるものとする: x" = – k x                                (1) 意味はこうだ。中心 O から距離 x 離れた天体が、その距離 x に比例する大きさの加速度 x" をもって O に向かっている。中心から離れているところほど、大きな加速度がかかってこの宇宙は収縮しているというわけだ(x の前にマイナスが付いているのは、距離とは逆向きに加速度がかかるから)。k は比例定数。話を簡単にするために、 k = 1 としておこう。 微分方程式 (1) を「解く」とは、(1) を満たす x を時間 t の関数 x... Continue Reading →

百千万億の経巻 | You will read billions of scrolls of sutras out there.

二十七祖・般若多羅はんにゃたら尊者が国王主催の昼食会に招かれた時のこと。 国王が尊者に問い質した、「他の僧侶らは皆わたしの前で経典を読誦した。あなたはなぜしないのか」。すると尊者は答えた、「諸縁に随わず、我身に安住もしない。わたしは百千万億巻の経典を常に誦じている。一巻や二巻どころではない」。–––正法眼蔵第三十「看経」より ここで「我身に安住しない」と訳したところは「不居蘊界」で、蘊界とは五蘊(人間の身心を構成する五要素=色受想行識)をいう。尊者が居るのは、五蘊に規定された世界の外ということになる。不随衆縁・不居蘊界の眼に映るすべてのものは、たとえ文字でなくても仏典でないものはなく、耳に聞くすべての音は、たとえ言語でなくても仏説でないものはない。 蘊界の外。そこは蘊界の別なく、もの・ひと・ことばが交わる空間だ。その空間を一々の衆生の行動様式として「現成」させる。どうやらこれが仏道のほんとうの目的ではないか。個人のさとりとか、もう関係ない。   When the King of East India invited Prajnatara the 27th Ancestor to his luncheon, the King asked him, “Everyone turns [reads] a sutra except you, venerable. Why is this so?” Prajnatara said, “While exhaling I do not follow conditions. While inhaling I do not reside in the realm of skandhas... Continue Reading →

善は作られる | Righteousness is an artifact.

「正法眼蔵」とは正しく伝えられた仏法の要点(眼)の集成(蔵)という意味だが、ここまで見てきたところ、どうやらその要点は「点」ではなさそうなのだ。正法とはこれとこれとこれです、という形で示せない。正法は「これ」であったり、なかったりする。 諸悪なきにあらず、莫作まくさなるのみなり。諸悪あるにあらず、莫作なるのみなり。|正法眼蔵第三十一・諸悪莫作 たとえば諸悪はないわけではなく、あるわけでもない。有か無かという選択が、仏法にはないのだ。諸悪に対してはただ「莫作(作さない)」だけだという。どういうこと?同様のことが衆善(=諸善)についても言われる: さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。作善さぜんの正当恁いん麼も時、きたらざる衆善なし。万善は無象なりといへども、作善のところに計会すること磁鉄よりも速疾なり。|同上 あらかじめ善というものが存在して人が来るのを待っているなんてことはない。善は有るのではなく、作すのだ。有る善を作すのではなく、作すところに善が出来る。どんな善もそれ自体に善の象かたちが定まってはいない。だが作善するまさにその時(正当恁麼時)、万の善が、磁石に引き寄せられる鉄片よりも速く集結する。 行為をベクトル、行為の対象を点で示せば、道元は世界を点の巨大な集合ではなく、ベクトルの海とみているようだ。海流にしたがって無数億の点が離合集散し、ところどころに島ができている風景。   Although 'Shōbōgenzō' –– Treasury of the True Dharma Eye –– literally means “Collection of the True Dharma Points”, they do not seem to be a collection of points; you will not be able to point to this dharma or that dharma in the collection. A dharma could be... Continue Reading →

月と水 | Reflection on subtleness

正法眼蔵「諸悪莫作(しょあくまくさ)」の巻にいう、「悪の人ををかさざる道理しられ、人の悪をやぶらざる道理あきらめらる」。 どういうこと?悪は人を冒すから悪と呼ばれるのではありませんか?人は悪を破り、善を行なうべきなのではありませんか?(「あきらめらる」=明らかにされる) まず、この文が「現成公案」の巻の次の文と同形であることに気づく: 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。 (人が覚りを得るとき、それは月が水にその影を宿すのに似ている。月は濡れることなく、水面は微動だにしない) ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天みてんも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。 (広く大きな光だが一尺一寸の水に宿り、満月も満天の星も草の露・一滴の水にも影をうつす) 月と水と、その物理的な大小はキャンセルされて、互いに他を少しも礙さまたげず、対等で繊細な関係にある。さとりと人の関係はそうあるべきだというのだ。 驚くべきは、悪と人の関係も同様だというところにある。排除か容認かの単純判断ではなく、複雑にしてデリケートな態度を「やぶらざる、をかさざる道理」と表現しているように思える。これは悪や善の問題ではたぶんないのだ。「問題」への態度が問題なのだ。 地球上で起きるできごとの大部分を、異なる二つのものの遭遇、接触、連結、分離の繰り返しと考えるなら、道元はその接触の様式について考えている。これをいかに洗練させるか。それは人の行動様式、したがって心の様式を洗練させることに結びつく。人が遭遇する対象が「さとり」であるか「悪」であるか「月」であるか「水」であるかは問わない。ぬれずやぶれずの作法はしずかに拡散して、現代のたとえば妹島和世の設計した美術館のファサードにもやどっている。そのアルミニウムの簿壁は「内」と「外」とを絶妙の繊細さで触れさせている。 In the chapter of “Refraining from Evil”, Dōgen wrote: You will know the idea that evil does not affect a person and a person does not disrupt evil. What is that idea? Evil is called evil because it affects people, isn’t it? People should disrupt... Continue Reading →

ガガーリンは見た | Color of the boundary

数学に「開集合」というものがある。その集合には輪郭がない。 考えてみれば不思議なことだ。たいていのものに輪郭はある。あるからこそ線で絵は描けるし、設計図面もつまりは輪郭線の集まりだ。心象とか記憶とかは別として、目に見え指に触れるようなものなら輪郭がないなどということは考えられない。それどころか、イスラームやキリスト教はそもそもこの世界に輪郭をもたせている。出発点(創世)と終止点(終末)を設定するわけですからね。 その意味では、20世紀の宇宙開発はリアルに世界の輪郭を見ようという試みだったのかもしれない。人類最初に地球の輪郭を見たガガーリン少佐の言葉、「地球は青かった」は今も忘れない。その「青」はもちろん、地球の輪郭面の色だ。 輪郭は外からしか見えない。ここがポイントだ。道元の「虚空のごとく般若を学ぶべし」を、もし「輪郭のない知」の意味にとるなら、それは宇宙からではなく地上で地球を見よということ、ではないか。般若を、開集合系として構成せよということではないか。どうやったらそれができるかは、わからないが。   Topology is a theory of mathematics. Its basic idea is the open sets, which has no boundaries of their own. This seems quite strange because every ordinary objects like desks, notebooks, cups and bottles have their boundaries defining themselves distinct from other objects or the space around them. It seems... Continue Reading →

空に境がないように|Vanishing boundaries

『大般若経』の一節。帝釈天が須菩提に尋ねる、「菩薩が般若を学ぼうとするとき、どう学ぶのだね?」 須菩提は答える、「帝釈よ、菩薩は虚空のように般若を学ぶのだ(如虚空学)」 これを、 般若は虚空のような知であると読むか。それとも、学般若は虚空を飛ぶような体験であると読むか。ここで道元は「〜ような」を落とす: しかあれば学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。 ––– 正法眼蔵第二・摩訶般若波羅蜜 論理が崩れている。「空」は名詞、「学」は動詞。動詞と名詞は類が異なる。この越えてはならないであろう境界が崩れ去っている。それでもなにかを認識し、その認識を伝達することは可能なのだろうか。論理や類別は認識と言語のために築かれたのではなかったか。 道元はまた言っている。 空の飛去するとき鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに空も飛去するなり。 ––– 正法眼蔵第十二・坐禅箴 鳥が飛ぶのか、空が飛ぶのか。飛に空もなく、鳥もないという。あるいは、空であり鳥である飛しかないのだと。   In Mahaprajna Sutra, Indra asks Subhuti, "Great reverend, if a bodhisattva wishes to learn prajna, the perfect wisdom, how should he learn it?" Subhuti replied, "Lord Indra, he should learn prajna like the sky." Subhuti's answer probably means either that prajna is... Continue Reading →

快適の設え | Do not seek it. Create it.

洞山大師に僧が尋ねた。 「暑さ寒さを避けるにはどうすればよろしいでしょうか」(寒暑到来、如何廻避) 師は答えた。 「暑くも寒くもない処に行けばいい」(何不向無寒暑処去) 僧「それはどんな処ですか」(如何是無寒暑処) 師「寒い時には死ぬほど寒くて、暑い時には死ぬほど暑い」(寒時寒殺闍梨、熱時熱殺闍梨) |正法眼蔵第三十七・春秋から そんなに暑くて寒い処がどうして「無寒暑処」なのか。たぶん洞山が言うのは、それはどこかに設えられた快適な場所ではなく、どこにでも快適を設えることなのではないか。極寒と灼熱の中に、別世界を挿入せよと。これを一つの転回と考える。   Master Dongshan was once asked by a monk, “When cold or heat comes, how can we avoid it?” Dongshan replied, “Why don’t you go where there is no cold or heat?” The monk said, “Show me the place where there is no cold or heat.” Dongshan... Continue Reading →

空はいつ地に落ちる | When the sky falls

僧が趙州和尚に言った、栢樹ヒノキに仏性は有りますか。和尚、有る。栢樹はいつ仏に成りますか。空が地に落ちる時じゃ。空はいつ地に落ちますか。栢樹が仏に成る時じゃ。 「栢樹」は樹の名であると同時に、それを眺めるあなたの名である。あなたは別に某という名を持っているかもしれないが、栢樹を見ているときには栢樹なのであり、海を見ているときには海、花を見ているときには花なのだ。栢樹が仏に成る時、あなたは仏になる。もう少し説明的に言えば、栢樹を見るあなたの眼が仏の眼に成る。つまり眼が覚める。その眼を向ければ、栢樹は仏に成っている。 眼があなたに属すと考えるのを止め、これを道具と思う。道具としての眼の扱いを修行し、熟達して、あたかもそれが自分の眼であるかの如くに感じられた時はじめて、あなたは「見る」ことができる。もはや、空が日々地に落ちるのがありありと見える。あなたは言うだろう、 栢樹子の成仏する毎度に虚空落地するなり。その落地、響かくれざること百千の雷よりもすぎたり。 正法眼蔵第四十「栢樹子」 (栢樹が仏になる毎度に空が落ちる。落ちる毎度に百千の雷が同時に鳴るよりも激しい音が響きわたる。)   A monk asked the master Zhàozhōu if the cypress tree has buddha nature. Zhàozhōu answered, “It has”. The monk asked further, “Then, when does it become buddha?” Zhàozhōu: “Wait till the sky falls to the ground.” The monk: “When does the sky fall to the ground?” Zhàozhōu: “Wait... Continue Reading →

最大感度 | Feeling the oscillation

諸仏の空間 Z は水面のように波動性があって、ある任意の一点の振動が速やかに、あるいは千年かけて、全空間を覆う。仏教徒が「修行」と呼ぶ訓練は、この振動に対する感度を最大にする努力なのだ。無限大の感度をもった眼には、山や海はこう見えるという: 而今の山水は古仏の道現成なり。ともに法位に住して究尽の功徳を成ぜり。 |正法眼蔵第二十九・山水経 而今(いま)ある山や水は、古いにしえの仏の道(ことば)である。ともに仏法の中にあって、功徳の限りを尽くす。–––古仏の覚りは現在の山河にまで達している。あの山もこの水も仏法に覆われている。これを「究尽の功徳」と言わずして、何と言おう。 山水が「古仏の道現成」つまり、覚りの表現であるというのは、少々説明を補う必要がある。ふたたび物心連続仮説が役に立つ。山水は、山水をみる眼や心と無関係には存在しない。Z における対象の名は、同時に、対象を見る眼の名なのだ。古仏の覚りは、山河を見る而今のあなたの眼に到達すると同時に、山河にも到達する。   Space Z of buddhas, described in Shōbōgenzō, seems to be like a water surface: an oscillation at any one point propagates to the space’s furthest end in one second or in thousands of years. Shugyō, the trainings which buddhist monks are engaged in, is an effort to... Continue Reading →

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