空はいつ地に落ちる | When the sky falls

僧が趙州和尚に言った、栢樹ヒノキに仏性は有りますか。和尚、有る。栢樹はいつ仏に成りますか。空が地に落ちる時じゃ。空はいつ地に落ちますか。栢樹が仏に成る時じゃ。 「栢樹」は樹の名であると同時に、それを眺めるあなたの名である。あなたは別に某という名を持っているかもしれないが、栢樹を見ているときには栢樹なのであり、海を見ているときには海、花を見ているときには花なのだ。栢樹が仏に成る時、あなたは仏になる。もう少し説明的に言えば、栢樹を見るあなたの眼が仏の眼に成る。つまり眼が覚める。その眼を向ければ、栢樹は仏に成っている。 眼があなたに属すと考えるのを止め、これを道具と思う。道具としての眼の扱いを修行し、熟達して、あたかもそれが自分の眼であるかの如くに感じられた時はじめて、あなたは「見る」ことができる。もはや、空が日々地に落ちるのがありありと見える。あなたは言うだろう、 栢樹子の成仏する毎度に虚空落地するなり。その落地、響かくれざること百千の雷よりもすぎたり。 正法眼蔵第四十「栢樹子」 (栢樹が仏になる毎度に空が落ちる。落ちる毎度に百千の雷が同時に鳴るよりも激しい音が響きわたる。)   A monk asked the master Zhàozhōu if the cypress tree has buddha nature. Zhàozhōu answered, “It has”. The monk asked further, “Then, when does it become buddha?” Zhàozhōu: “Wait till the sky falls to the ground.” The monk: “When does the sky fall to the ground?” Zhàozhōu: “Wait... Continue Reading →

最大感度 | Feeling the oscillation

諸仏の空間 Z は水面のように波動性があって、ある任意の一点の振動が速やかに、あるいは千年かけて、全空間を覆う。仏教徒が「修行」と呼ぶ訓練は、この振動に対する感度を最大にする努力なのだ。無限大の感度をもった眼には、山や海はこう見えるという: 而今の山水は古仏の道現成なり。ともに法位に住して究尽の功徳を成ぜり。 |正法眼蔵第二十九・山水経 而今(いま)ある山や水は、古いにしえの仏の道(ことば)である。ともに仏法の中にあって、功徳の限りを尽くす。–––古仏の覚りは現在の山河にまで達している。あの山もこの水も仏法に覆われている。これを「究尽の功徳」と言わずして、何と言おう。 山水が「古仏の道現成」つまり、覚りの表現であるというのは、少々説明を補う必要がある。ふたたび物心連続仮説が役に立つ。山水は、山水をみる眼や心と無関係には存在しない。Z における対象の名は、同時に、対象を見る眼の名なのだ。古仏の覚りは、山河を見る而今のあなたの眼に到達すると同時に、山河にも到達する。   Space Z of buddhas, described in Shōbōgenzō, seems to be like a water surface: an oscillation at any one point propagates to the space’s furthest end in one second or in thousands of years. Shugyō, the trainings which buddhist monks are engaged in, is an effort to... Continue Reading →

覚者の夢 | As real as unreal

D75 の記述する空間 Z には「リアル」と「アンリアル」という二個の部分空間がある。現実と空想とも言う。両者は物質的基盤に接地されているかいないかで区別される。「物質的」というのを正確に定義するのは面倒なことになりそうなので、ここはたんに「基盤」と呼んでおけばよい。要するに、基という形容詞の付いた盤に接続しているのがリアルであり、していなければアンリアルということだ。特徴的なのは、この盤が、Z では “通常” より小さいのである。言い換えれば、アンリアルがリアルとほとんど対等なのだ。なぜなら D75 にはこう書かれているからだ(文中、「覚」がリアルに、「夢」がアンリアルに相当する)。 夢・覚、おのおの実相なり。大小せず、勝劣せず。 :正法眼蔵「夢中説夢」 夢にみる世界も、覚めてみる世界も、ともに実世界であって、差はないというのだ。そればかりか、 釈迦牟尼仏および一切の諸仏諸祖、みな夢中に発心修行し、成等正覚するなり。 :同 ブッダはじめ諸仏諸祖はみなアンリアルの領域で仏道に目覚め、修行を続け、正覚を得たのだという。通常の世界 W に棲息する人類にとっては受け入れられない話である。W のブッダはまちがいなく覚めていたし、彼の弟子たちは現実にその教えを展開していったのであり夢なんか見ていたわけではない。少なくとも仏教史はそう語っている。だが Z では、仏道は「現実」を越えて展開した。もしそうなら、仏教史学者の扱える範囲を仏道は逸脱しているわけだ。ていうか、逸脱していいのだ。   The space Z described in D75 has two subspaces, REAL and UNREAL, which are distinguished by the condition whether or not it has a material basis. Because clarifying the meaning of ‘material’ would be... Continue Reading →

透明な層 | Transparent layers

当研究所の業務は暗号解読と言ってもいい。われわれは、13世紀に日本で書かれたということしかわかっていない暗号文書 D75 を解いてほしいと依頼された。誰からの依頼かは忘れてしまったし、気にしていない。これまでに解読できた部分から推定すると、どうやら D75 はある稀有な様相をもった空間の仕様を記述しているらしい。その空間を仮に「Z」とすると、Z の風景がまるで現実のもののように立ち現われる–––現成する–––ところまで解読が進捗したとき、この世界にどんな変容が起きるのか、それはわれわれにも予測できない。 解読の最大の障害は、目の前の暗号の難解さではなく、日頃あたりまえのように受け入れている常識だ。今日もその一つを乗り越えなければならなかった。「夢中説夢」、夢の中で夢を説く。 Z では、それは "現実離れ" という意味ではない。夢の中で説かれた何ものかを、やはり夢と呼ぶ。階層の区別を示すはずの「中」というコードが無視され、夢とそこから生み出されるものとの区別が消失した景観が出現する。 Z の階層が透過される。スティーブン・ホールに倣って言えば、世界を成り立たせている見かけだけの階層に無数の孔が穿たれる。 正法眼蔵第二十七「夢中説夢」から Our institute's mission is a kind of code-cracking. We are requested to solve Shōbōgenzō, which is D75 in our designation, a huge collection of ancient codes written by a Japanese monk Dōgen. What has been revealed so far is that D75 seems to be... Continue Reading →

意味を設計する | Design the meanings

「すべての物事を対等なものとしてみる」ことの反対は、「物事に差をつけてみる」ことだ。「差」の根拠は、価値や意味や順序だ。それらはキャンセルできる、と「対等」観はいう。仏教っぽく言えば、価値も意味も順序も皆な「空」というわけだ。 一切対等、一切皆空ならば、部分と全体は等しく、微小と極大は等しく、一瞬は永遠に等しいことになる。それはなにか起伏のない、のっぺらぼうで退屈な風景になりはしないか。ならない。対等観〜空観は、価値や意味のシステムを破壊するためにあるのではないからだ。むしろ、キャンセルできるとわかっていればこそ、価値や意味を使いこなし、設計すらできる。 …なんてことを正法眼蔵「全機」の章から読み取ったのだが、どの文がそう言っているのか特定できない。たぶん、行間に書いてあるのだ。   In the opposite side of “looking all beings as equal” is the idea of differentiation, where things are arranged in distinct classes based on values, meanings, or orders that are, from the equalist point of view, to be cancelled. Using a more Buddhist term, they are “empty”. Assuming all things are... Continue Reading →

水平の風景 | Horizontality is the basic arrangement.

日本の伝統的な家の造りは、土間があり、床があり、その上に屋根が架かる。つまり、水平の層から成る。壁や戸などは「しつらえ」に属し、それを作る職人もちがう。垂直の構造体が最小化されているから、水平方向には視線を遮るものがない。遠景の稜線や上空にかかる月も、近景の枯山水も、さらに近景の茶器その他の道具類も、ひとつの空間に在って、大小を問わずみな対等に扱われる。対等–––これがもしかすると正法眼蔵の床であり、屋根なのではないか。かれはこう言っている。 しるべし、自己に無量の法あるなかに生あり死あるなり。 正法眼蔵第二十二「全機」 「無量」は無数、「法」は law じゃなくて、ものごと。生も死も、自分にとって存在するいろんな物事のうちの一つ、月や枯山水や茶器なんかと同じ、一箇のものごとだ。一生は一茶事であり、一杯の茶は一生に匹敵する。 関連書:中川武『日本の家 ––– 空間・記憶・言葉』 TOTO出版 2004   The architectural space in pre-modern Japan was an ensemble of horizontal or semi-horizontal planes; floors and roofs. Vertical structures are visually minimized to thin pillars, leaving walls and sliding doors to be recognized as installation. Unlimited horizontal view encompasses the diverse objects –– mountains... Continue Reading →

空間の質を決めるもの | Joints to shape the social space

人と人が言葉を交わす。言葉が人と人を結ぶ。「言葉」のかわりに物でも、振舞いでも、また言葉+物+振舞いの複合でもよくて、それをあらためて広い意味の「言葉」と呼ぶことにする。言葉が人と人とのつながり–––社会–––を織り上げる。 建築家ピーター・ズントーは「空間の質はジョイントで決まる」と言った。ならば社会の質はそのジョイントである言葉によって決まるだろう。そこでブッダは、言葉に「仏法」を複合させることを考えた。それは明らかに、それまで世界に存在しなかった新しい言葉だ。人々の言語に、物や感情や天気以外に、仏法を語る語彙が混ざりはじめた。 仏々祖々嫡々相承せるはこれただ授記じゅきのみなり。さらに一法としても授記にあらざるなし。……授記は道得どうて一句なり、聞得もんて一句なり。 (諸仏諸祖が伝えてきたのはただひとつ、授記である。授記でない仏法は一つもない。……授記とは、一句なりとも言葉を道いい、言葉を聞くことにほかならない。) :正法眼蔵第二十一「授記」 「授記」とは本来、師が弟子に成仏の保証を与えることだが、その際、勿論なんらかの仏法の言葉が交わされる。道元は大胆にも「成仏の保証」を無視して、これを人と人とのジョイントの一形式とみているわけだ。   People communicate with words. Words works as joints connecting people. You can replace them with a complex of words, things and behaviors, which I will also call ‘words’ in a broader sense. It is precisely this complex that weaves the texture of society. An architect Peter Zumthor once... Continue Reading →

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